| 2005/03/27の礼拝説教 |
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主を引き止めよ
ルカ24:28〜32 出エジプト記34:5〜9 ヘブル13:20〜2 皆川尚一牧師 |
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それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、 イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 そこで、しいて引き止めて言った、 「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、 日もはや傾いています」。 イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、 彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、 それがイエスであることがわかった。 すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、 「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、 お互の心が内に燃えたではないか」(ルカ24:28〜32)。 主は甦えられた わたしたちは先ほど「イースターの交誦」をとなえて、主イエス様の ご復活を宣言しました。「主は甦られた。ハレルヤ!」というイースターのメッセージは、希望と喜びにあふれています。なぜなら、それは「イエス様は今も後も永遠に生きておられる」という目撃者のなまなましい証言だからです。そして、復活はいちどだけでなく、何回もあります。 先ず、主イエス・キリスト様のご復活があります。そして、イエス様を信じて自分の内側に迎え入れる人の復活があります。あなたは毎日、敗北の中から甦って永遠に生きる人として歩み出すのです。 そこで《ルカによる福音書第24章13節以下》をごらん下さい。 エマオ途上のキリスト 「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから7マイルばかり離れた エマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互いに語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、 イエスを認めることができなかった」(13〜16節)。 この日というのは、イエス様が甦られた日のことです。ふたりの弟子とは、イエスさまの親族で、叔父のクレオパと、従兄弟のシメオンという 父子でした。彼らの家がエマオ村にありましたから、彼らは家路を急いで いたのでしょう。エマオ村はエルサレムから約7マイル(12キロ)離れた 距離にありましたから、この辺でいえば、相模大野から厚木まで くらいの距離です。 彼らは弟子であり、しかも親族でありながら甦ったイエス様をそれと 認めることが出来ませんでした。ここには「彼らの目がさえぎられていて」イエスを認められなかったとありますが、別の福音書では、 「イエスはちがった姿でご自身を現わされた」(マルコ16:12)とあります。このあとの場合がしばしばあるといえるでしょう。 例えば、ヨハネ黙示録第1章では、 「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめて いる人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真っ白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」(13〜16節)。 これはわたしたちの想像を超えた全世界の審判主としての権威ある キリストの御姿です。使徒ヨハネはその御姿を見て、倒れ伏して死んだ ようになりました。 つまりイエス様はご自身の目的に応じて、その時々に御姿を変えて 現れるのだと思われます。ですから、わたしたちも自分に現れるイエス様についても先入観を捨てて受け止める必要があります。 さて、エマオ村に帰るふたりの弟子は、午後3時頃エルサレムを出て、追われる人のように道を急いでいました。彼らはイエス様が甦えられた ことを報告した女性たちの目撃証言が信じられなかったので、あれこれ議論しながら歩いていると、見知らぬ旅人と道連れになりました。その旅人は、彼らの不信仰を嘆いて、聖書の中のキリストの苦難と復活の預言を説き明かしてくれました。それを聞いているうちに彼らの心は信仰の火で燃え立つ感じになりました。ちょうどその頃、彼らはエマオ村に近づきました。しかし、その旅人はなおも先へ進み行く様子だったのです。 では、ルカ24章29節以下に目をとめてください。 「そこで、しいて引き止めて言った、『わたしたちと一緒にお泊り下さい。 もう夕暮れになっており、日もはや傾いています』。イエスは彼らと共に 泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを 取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、 それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互いに言った、『道々お話しなったとき、また聖書を説き明かして くださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか』」(29〜32節)。 主を引き止めよ 皆さん、わたしたちが主にお会いするためには、主を「強いて引き止める」ことが大切です。「強いて」のギリシャ語は「ビアゾマイ」で「無理に」とか、「力づくで」とか、「あくまで主張して」とか強い意味です。 イエス様はわたしたちに近づいて来て、救いのチャンスを与えられますが、ただ受身でぼやぼやしていると、通り過ぎてしまわれます。 もし、クレオパが強いて引き止めなかったら、彼らは甦えられたイエス様を見ることが出来なかったでしょう。しかし、彼が「わたしたちと一緒に 泊まって下さい」と無理に引き止めたからすばらしい恵みを受けました。自己中心の人は、「なんだ、けちくさい。キリストだったらもっと親切にしてくれても良さそうなものだ」と思うでしょう。そういう人はイエス様を見ることが出来ないのです。己れを捨て、謙虚で熱心に主を求める人に主は ご自身を現わされます。ただ、漫然と聖書を学び、集会に出ているだけでは霊の目が開かれません。そして、いつのまにか、主は過ぎ去って 行かれます。 「主よ、わたしのそばにいてください。わたしの内にとどまって下さい」と一心に求めて心を開けば、イエス様は喜んであなたの内側に入ってこられます。 * 例えば、39年前、わたしが一心に聖霊で満たされることを求めていたとき、朝早く、午前4時にイエス様がわたしを呼び起こして、書斎で祈るわたしの前に現われて下さいました。わたしが「イエス様、どうかわたしを聖霊で満たして下さい」とお願いしましたら、「わたしの恵みは、もうお前には充分だよ。それでいいではないか」と言われました。これでわたしが引き下がっていたら、あの強烈で甘美な聖霊体験は得られなかったのです。わたしは答えました、「はい、主よ。わたしはあなたから多くの恵みをいただいているので、感謝しています。しかし、わたしのまわりには、 苦しんでいる人が沢山いるので、もっと力強く福音を伝えてあげたいのです。どうか、聖霊を満たして下さい」と、無理にお願いした結果、主は わたしを体ごと幾たびも、幾たびも引き上げて、聖霊で満たしてくださり、主イエスさまとの蜜よりも甘い愛の交わりの中に入れて下さいました。 わたしの同僚の牧師たちは「皆川君が人一倍熱心に伝道していたから、ご褒美に聖霊を満たしてもらえたのだろう」などと言いましたが、聖霊はご褒美ではありません。献身的な奉仕活動や、沢山の献金に対する 報いでもなく、崇高な人格に対するご褒美でもないのです。ただ、自分を頼まずに、イエス様を慕い求める人に主は応えて下さいます。 前にも言いましたように、「大きく叩けば、大きく応え、小さく叩けば、 小さく応える」。これが主の方法です。主の恵みに甘える人は、 なりふりかまわずに、主を引き止めて、もっと大きな恵みの中に 飛びこんで下さい。 アーメン |
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