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  矛盾も神の手に

   伝道の書9:1〜6
   ローマ3:9〜18
   マタイ5:43〜48                 皆川尚一牧師
矛盾も神の手に
  わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を
  明らかにしようとした。すなわち正しい者と賢い者、
  および彼らのわざが、神の手にあることを明らかにしようとした。
  愛するか憎むかは人にはわからない。
  彼らの前にあるすべてのことは空である。
  すべての人に臨むところは、みな同様である。
  正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、
  清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、
  犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。
  善良な人も罪びとも異なることはない。
  誓いをなす者も、誓いをなすことを恐れる者も異なることはない。
  すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われる
  すべての事のうちの悪事である(伝道の書9章1〜3節前半)。

 ソロモンは自然界のことから人間社会のことまでありとあらゆる現象を観察し研究しました。そして、正しい者と賢い者、および彼らのわざが神の手にあることを明らかにしようとしました。つまり神の摂理ということです。正しい者や賢い者はどのようにして良い働きをなしとげて行くのか。それは、彼らが神様を畏れかしこみ、みこころにかなった良い仕事を
させてください、と謙虚な気持ちで祈りながら神様の御手に導かれて
働いたからです。

 「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。
 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる」(2:25〜26)

ということをソロモンは発見しました。
 しかし、人生の物事はそう単純なことばかりではありません。ことに
愛するか憎むかが神の手にあると言う事は簡単には言えないのです。

 「愛するか憎むかは人にはわからない」(1節)。

 例えば、ダビデ王の長男アムノンとタマルの事を考えて見ましょう
(サムエル下13:1〜33)。
 アムノンは腹違いの妹タマルを恋して病みわずらうほどに彼女を慕いました。しかし、近親結婚はイスラエルの律法では許されないことですから、どうしようもなかったのです。ところが、悪友のヨナダブに悪知恵をさずけられ、仮病をつかってタマルが菓子を作って自分の寝室にお見舞いにくるように仕向けました。そしてタマルを無理矢理に自分のものにしてしまいました。タマルはもちろん抵抗し兄をいさめて、先ず正式にダビデ王に結婚の許しを得て下さい、と願ったのですが、アムノンは、聞き入れませんでした。

 「それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。
 彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった」(15節)

とありますように、愛が憎しみに変ったのです。タマルは兄との結婚を
求めましたが、アムノンは家来に命じてタマルを外に追い出させましたから、タマルは頭に灰をかぶり、着物を裂いて泣き叫びながら去って行きました。ダビデ王がこの事件についてアムノンに対する適切な裁きを行わなかったので、タマルの兄アブサロムがタマルの仇を討ってアムノンを
殺しました。
 アムノンの恋は、真実の愛ではなくて、ただの愛欲にすぎなかったのでしょう。しかし、それにしても深い憎悪に変わったと言うのは人間性の中にひそむ恐ろしい「狂気」を見る思いがします。これも、神の御手の中にあって起こったことでしょうか? 神様はなぜ人の悪事に介入してやめ
させなかったのでしょうか? そうです。やばり神の大きな御手の上で、人は、善い選択をも、悪い選択をもする自由を与えられているのです。善い選択には善い報いが、悪い選択には、悪い報いが遅かれ早かれ
やってきます。だからアムノンは、アブサロムにころされました。そして
アブサロムは、父ダビデ王に対して反乱を起こし、戦いの中で死ぬのです。これらは神の摂理の御手の中で起こった因果応報の出来事です。

同一の悪事?
 ソロモンはすべての人に平等に同じようなことが臨むのは
悪いことだと見ています。即ち、

  「正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、
  清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者(敬虔な心で礼拝を
  ささげる者)にも、犠牲をささげない者(神礼拝をしない者)にも、
  善良な人にも罪人にも、神に誓いをする人にも誓いをするのを
  恐れる人にもすべての人に同一に臨むのは、日の下に行われる
  すべての事のうちの悪事である」(2〜3節前半)。

 すべての人に同じように臨む事柄と言えば、神様の自然の恵みと
病気、老衰、死といったことでしょう。 主イエス様も言われました。

 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、
 正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さる」(マタイ5:45)。

 これは悪いことではありません。なぜ悪人の上にも恵みを与えるかと
言えば、彼らもまた救われてほしい神の子供たちだからです。天の父
なる神様は人を罰して地獄に落とすことを好むお方ではなく、すべての
人が悔い改めて神様に立ち帰ることを求めて待っている愛の神様なの
です。人が地獄に落ちるのは自分の罪の結果です。死もまた必ずしも
悪いこととは言えません。

生ける者の望み
 また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、
もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに
忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らは
もはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない
(3節後半〜6節)。

 ソロモンの知識はこの世に生きている人々やこの世の現象に関しては豊富であったようですが、死後に人の魂がどうなるかに関しては極めて貧しい知識しかなかったように思われます。ことに、この人生における神の裁きは知っていますが、死後における神の裁きはあまり知らなかったようです。だから「死者は何事も知らない」とか、「もはや報いを受けることもない」とか、「その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」とか言うのです。しかし、実際はそうではなく、死後にこそ公平な神の
裁きがあります。死者の意識もハッキリしているし、愛も憎しみもねたみも継続しているし、何らかの形でこの世にかかわりを持つこともあるのです。
 死は、神様を畏れ、悔い改めて神の御心を行い、神を愛し、
人を愛する良い人生を送った人にとっては天国への入り口ですから、
まことに幸せな出来事となります。
 しかし、「心に悪が満ち、狂気が心のうちにある人」
にとっては地獄への入り口となります。(ローマ3:9〜18)。
 * プラトン著「国家」(下)の第10巻に「戦士エルの物語」と言うのがあります。エルは戦死してから12日目に火葬にされる寸前に生きかえった
臨死体験者の古代版でありました。エルが見てきた陰府の世界には
不思議な場所がありました。そこには大地に二つの穴があり、これと
向かい合って天の方にも二つの穴があり、その間に裁判官たちが
並んでいました。
 ここへ来る魂はみな判決の内容を示すしるしをつけられて、天に行く人は天への穴からのぼり、地獄に行く人は地の穴から下っていくのでした。天のもう一つの穴からは別な魂が浄らかな姿で下りて来るし、地の別の穴からは、汚れと埃にまみれた魂たちが上がってきました。彼らはそれぞれの旅の経験を語り合いましたが、地の底から上がってきた魂たちは涙ながらに苦しみの数々を語りました。人はこの世でだれかにどれだけの不正を働いたかに応じて、10倍の苦痛を1000年にわたって受けねばならないということでした。
 ですから、ソロモンの言う通り、この世に生きている間にこそ大きな
望みがあるのです。私たちは神の御手の中で愛と祝福の人生を選び
取り、心の狂気をきよめられて天国への道を進みましょう。 アーメン

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