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快楽のメリット
伝道の書2:1〜11 Tテモテ4:1〜5 ルカ12:13〜21 皆川尚一牧師 |
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快楽への挑戦 わたしは自分の心に言った、 「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。 おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。 わたしは笑いについて言った、 「これは狂気である」と。また快楽について言った、 「これは何をするのか」と。 わたしの心は知恵を持ってわたしを導いているが、 わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。 また、人の子は天が下でその短い一生の間、 どんな事をしたら良いかを見きわめるまでは、 愚かな事をしようと試みた。わたしは大きな事業をした。 わたしは自分のために家を建て、ふどう畑を設け、園と庭をつくり、 またすべての実のなる木をそこに植え、池をつくって、 木のおい茂る林にそこから水を注がせた。 わたしは男女の奴隷を買った。また、わたしの家で生まれた奴隷を 持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいた だれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。 またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。 また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。(伝道の書2章1〜8節) ソロモン王は人生のありとあらゆる快楽に挑戦してみました。さすがに神様から知恵を与えられ、祈ることを知っている王様だけあって、ただ 単純に楽しんだわけではありません。一々考えながらやっています。 「わたしは自分の心に言った、『さあ、快楽をもって、お前を試みよう。 お前は愉快に過ごすがよい』」。(1節) 人間の心は二重構造になっていて、高い自分が低い自分に向かって語りかけているのです。なぜ快楽の限り味わい尽くそうとするのか、 その理由は、人生の意味と目的を知るためなのです。 「人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、 見きわめるまでは、愚かなことをしようと試みた」(3節) 「快楽は空しい」と分かっている。酒を飲んでゲラゲラ高笑いするのは気違いじみていることも知っている。「快楽が何の役に立つのか?」と 疑問に思っている。賢いソロモンは直感的に快楽の空しさを見抜いていたのです。しかし、やはり実験して、体験して、確かめてみたかったのです。一つ徹底的に馬鹿なことをやってみよう。トコトン快楽と言われるものを味わい尽くしてみようと考えたわけです。 さすが天下のソロモン王だけあって、やることが大きい。彼は大神殿をエルサレムに築き上げましたが、今度は自分の大宮殿を造りました。 大土木事業を起こして、壮大な園や庭、そこに林をつくり、さまざまの 果樹を植え、ぶどう畑を造り、池や川を造りました。沢山の男女の奴隷を買い、数え切れないほど多くの奴隷達が労働に従事しました。これまで エルサレムにいたどんな王様よりも豊かな富を手に入れました。羊や牛のような家畜。金、銀、宝石、織物や衣服、その他の貢ぎ物が諸国の王たちから献げられてきました。美しい歌を巧みに歌う男女の歌手や音楽家たちもいたし、妃700人、側室300人計1000人の女性を彼のハーレムに蓄えたのです。 * アメリカの億万長者ポール・ゲティが「大富豪」とは何かを否定的に定義して「自分の財産を数えられるようなら大富豪ではない」 と言っています。 この定義に当てはめてみれば、 ソロモン王は正に大富豪になった人であると言えるでしょう。 快楽のメリット こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、 およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、 風を捕えるようなものであった。日の下に益となるものはないのである。 (9〜11節) こうして富を築き上げ、ありとあらゆる快楽を味わい尽くした結果、ソロモンが得た結論は、やはり「快楽も空しい」ということでした。快楽を得るためには、かなり労苦しなくてはならない。労苦の果てに得た快楽は、 すぐに過ぎ去ってしまい、風を捕えるようなものだと悟ったのです。 それで、「日の下に益となるものはない」のであると結論付けています。 つまり、「快楽にメリットはない」ということです。 皆さん、これは本当の結論でしょうか? いやいや、そうではありません。わたしたちは未だ伝道の書の始まりの部分を読んでいるのです。 ソロモンは人間が快楽と幸福と利益を追い求めて、もっと何かあるんじゃないかと夢中になってむさぼり求めて行く生き方に、水をぶっかけているだけなのです。 ビートたけしの告白 わたしは最近、ある古本屋でビートたけしの「死ぬための生き方」という本を買いました。その中に彼が交通事故に遭って死にかけた時の体験が書いてありました。 孤独な病室の中で外を見ずにいると、精神がじゃんじゃん追い込まれて、実に寂しいところに追いやられた。手術のあと、飴を1個しゃぶった。飴なんかしゃぶったことなかったけれど、これが物凄く甘かった。ビデオ見ても面白くない。テレビ見てもばかばかしくてつまらない。マンガも映画もつまらない。ただNHK特集の野生の動物とかキジの生態を見るくらい。そういう中で分かったことがある。働いて家に帰って、家庭の団欒があって、テレビ見てワハハと笑って寝てしまう。そうした毎日、毎日当たり前みたいに暮らしていることがいかに幸せかということが分かったというのです。 ただし、こういう時にこそ、神様か仏様かが現れてくれないかな、と期待して待ってたけど、何も現れなかった。やっぱり自分で考えていく ほかない。これが彼の告白でした。 メリットはある ビートたけしの告白の中にも真理の一片が語られています。 それは日常生活の当たり前みたいな幸せが大切なんだということです。聖書はそのことを神様の恵みとして見てごらんと教えているのです。 「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、 何ひとつ捨てるべきものはない。それらは神の言と祈りとによって、 きよめられるからである。」(Tテモテ4:4〜5)。 本当の幸せは、莫大な費用をかけた娯楽産業の中にあるのではなくて今与えられている日常生活の中にあるのです。飴1個でも、せんべい1枚でも「神様ありがとうございます」と感謝していただけば大いにメリットが あるのです。味わえば過ぎ去って行く幸福感ですが、神様からの愛の あかしとして感謝して行けば、毎日新しく天から降るマナのような恵み なのです。 アーメン |
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