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人の本分
伝道の書12:9〜14 ヤコブ1:19〜25 ヨハネ14:18〜24 皆川尚一牧師 |
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努力の産物 さらに伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。 彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。 伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。 また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。 知者の言葉は突き棒のようであり、 またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から 出た言葉が集められたものである。 わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。 多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。 事の帰する所は、すべて言われた。 すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。 これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、 ならびにすべての隠れたことを善悪ともにさばかれるからである。 (伝道の書12章9〜14節) ソロモン王は伝道の書と箴言と雅歌の著者として知られています。どの著作もそれぞれユニークで知恵と知識とに満ちていますが、これらの書は書きしるされる前に彼によって語られた教えであるところに特色があるのです。「知識を民に教えた」(9節)。 彼は自分のことを「伝道者」と称していますがこの語はヘブライ語で 「コーヘレス」と言って、集会で神の真理を語る人のことです。ソロモン王ほどのえらい王様が自らコーヘレスと称して人々に神の道を伝えるとは信じられないと思う人もいるでしょうが、実はそれは本当のことで、彼の名声は天下に鳴りひびき、シバの女王もソロモン王の足許に来て、直接その教えを聞いて感嘆し、最高の賛辞を王にささげました(列王上10:1〜10)。 * ソロモンほどではありませんが、日本でも5代将軍徳川綱吉は生類憐れみの令で犬公方の悪名高い将軍でしたが、大の学問好きで家臣 たちを集めて自ら中国の聖賢の書の講義をして聞かせたと言われています。 ソロモンは21歳で即位したとき神様に知恵を下さいと祈りましたが、 それ以前から学問が好きであったと考えられます。彼は60年の生涯の 間、ここに記されている通り、「よく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。麗しい言葉を得ようと努めた。真実の言葉を正しく書きしるした」(9〜10節)のです。つまり知恵と知識は彼の努力の産物であったと言えます。思うにソロモン王という人物は好奇心のかたまりといったような人で、これは何だろう?と考えたら納得ゆくまでトコトン探求して行ったのです。だから60年の生涯は常に充実し、常に若々しく知恵と知識の宝庫として築き上げられたのだと思います。 神から出た言葉 次に「知者の言葉は突き棒のようであり、またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである」(11節)とは、中々味わい深い言葉です。 ここまでの文章を読むと、ソロモン王礼賛一色といった感じですから、まさかソロモンが自画自賛をするはずがなかろう。多分9節から14節は後世の編集者がつけ加えたものであろうと言う説が色々な学者たちから提出されているのです。 しかしながら、あたかも他の人が書いたような形で本人が書いているのも聖書の中にはよく見受けられる文学的手法です。特に最後のしめくくりなどはソロモンの特色そのものだとも言えます。そして、今とりあげたこの聖句だって同じ事が言えるでしょう。 「突き棒」(ドルボーノート)とは羊飼いの持つ杖のことです。羊飼いは杖を突いて音を立てながら羊たちをいのちの水の流れや井戸や草原へと導いて行きますし、もし羊が迷い出たら杖の頭の湾曲した所を延ばして羊の首にかけて正しい道へと引き戻すのです。知者の言葉は人々に 正しい道を示し、人生の道しるべあるいは方向性を示すものです。迷い出た人を正道へと引き戻す働きをします。また、知者の言葉はしっかりと打ちこんだ釘のように揺るぎない真理を示します。なぜなら、知者の言葉は人から出たものでなく、神様から出たものであるからです。 「ひとりの牧者」とは、ダビデ王の有名な詩から来ています。 主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいの水際に伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、 御名のためにわたしを正しい道に 導かれる(詩篇23:1〜3) 全人類のただひとりの牧者であられる神様こそ、ソロモンにとって知恵と知識の宝庫であり、命の言葉の泉でありました。それはわたしたちにとっても同じではないでしょうか。神の知恵をいただくのには本を読むほかにも、いろいろな方法や道がありますからソロモンは弟子たちに、 「わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ」と言いました。大切なことは神様からの知恵や知識のお言葉を心の深みまで受けとって養われて行くことです。それは膨大な量になるでしょう。しかし、結論は短いのです。 人の本分 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、 その命令を守れ。これはすべての人の本分である。 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともに さばかれるからである。 (13〜14節) 「事の帰する所」の頭文字Sは珍しく大文字です。いよいよ結論に到達したのです。すなわち、「神を恐れ、その命令を守れ」。 この一句に尽きるのです。「寸鉄人を刺す」という諺がありますが、 短いゆえに力があります。 例えば戦争中に軍人勅諭が天皇陛下の名において発布されました。 「ひとつ、軍人は忠節をつくすを本文とすべし」。この一句に尽きるのです。又、当教会の長老であった大寺新一さんが四国の県立高地中学校の生徒であったとき、視学官が学校視察に来ました。全校生徒が講堂に集められ視学官の訓示を受けることになりました。その時ずしんずしんと床を踏み鳴らして壇上に登った役人は、大きな声で一言、「学生は勉強する」と宣言して、またずしんずしんと床を踏み鳴らして去って行ったそうです。 たしかに、軍人には軍人の本分があり、学生には学生の本分があります。そのように人間にも人間の本分がある。それが「神を恐れ、その命令を守る」ことなのです。ここで「人の本分」とは「コル・ハ・アーダ」というヘブライ語なのです。「コル」には「本文」という意味のほかに、「すべて」という意味もありますし、「アダム」が人の意味で用いられるときは、 「土で造られた人」という「いやしさ」や「もろさ」を意味します。しかし、 それを神様のものとしてささげる時、神様は粘土をサファイアに変え、 砂をオパールに変え、すすをダイヤモンドに変えてくださるのです。 * イギリスのメソジスト派の伝道者ロドニー・スミスがアバディ−ンと いう町の暗黒街で伝道していた時のことです。ある晩、集会が終わって帰り道だれかが彼の上着をうしろからしきりに引っ張るので振り返りますと、貧しい身なりの少女が紙包みを手に立っていました。「何かごようですか」。「先生このお菓子を先生にあげたいの」「どうして?」「わたしの家に新しいお父さんが出来たからです。今までのお父さんは酒飲みで、 なまけもので、乱暴で自分勝手な人でした。だけど先週の土曜日、先生の集会に出て、イエス様を信じてから、まるっきり違った人になりました。わたしたちはとっても幸せになったんです」。 このように「神を畏れ、その戒めを守る」人は飲んだくれの厄介者から家中を幸せにする宝石のような人に変えられるわけです。 なぜなら≪ヨハネ4:21〜24≫にありますように、イエスさまを信じて愛の戒めを心に抱いて守る者は神様がその人の内に宿って輝いて下さる からです。 アーメン |
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