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  永遠を思う

   伝道の書3:9〜15
   ローマ11:33〜36
   マタイ6:9〜10                   皆川尚一牧師
労苦の美しさ
  働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
  わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
  神のなされることは皆その時にかなって美しい。
  神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
  それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで
  見きわめることはできない。わたしは知っている。
  人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに
  良い事はない。またすべての人が食い飲みし、
  そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
  わたしは知っている、すべて神がなさる事は永遠に変わることがなく、
  これに加えることも、これから取ることもできない。
  神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつように
  なるためである。今あるものは、すでにあったものである。
  後にあるもの、すでにあったものである。
  神は追いやられたものを尋ね求められる。(伝道の書3章9〜15節)

 1999年もクリスマスが過ぎて、年の瀬となり、終りに近づいています。
この一年を振り返ってみて、皆さんそれぞれに何か良い事がありましたか?何か得るものがありましたか?ソロモンも自分の過ごしてきた一年を振り返って言うのです。
 「働く者はその労することにより、なんの益を得るか」ザルで水を汲む
ような無意味な苦労では働く甲斐がありませんね。働いて食べていくことは人間が生きるための基本です。人祖アダムがエデンの園で生きるためには農業をする必要がありました。地を耕し、麦や稲の種を播いて
収穫をする労働は楽しい、美しいものでした。それは神様が人の子らに与えた仕事でした。しかし、アダムが神様に背いて悔い改めなかったので、エデンの園から追放され、やはり地を耕して収穫を得ながら働くことになりました。これは苦しい労働になりました。

 「地はあなたのために呪われ、いばらとあざみとを生じ、
  あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」(創世紀3:17〜19)

 この罪の世では、パンを食べて生きて行くのには労苦が必要です。
キタナイ、クサイ、クルシイ仕事であっても、働いて食べることは神のわざであり、美しいことなのです。
 * 私は20歳代の頃、ロシアの哲学者ニコライ・ベルジャイエフの「近代世界における人間の運命」という本を読んで感動しました。その中の
「自分自身のパンの問題は物質的な問題であり、他の人のパンの問題は精神的な問題である」という文章に出会って大いに共鳴したものです。
 しかし、それから50年以上生きて来て、そうは思えなくなりました。自分自身が生きるためのパンの問題だって、精神的、霊的に尊い問題です。自分を養い、自分の家族を食べさせ、助けを必要とする他人や社会の
ために働く事、また神様のために労苦する仕事も美しい労苦です。
 * 私は18歳の時、中学を卒業して日曜学校の先生になりました。
毎日曜日の早朝、誰よりも早く起きてご飯を炊いて朝食を用意してくれる母の姿を美しいと思いました。その頃母は未だクリスチャンではなかったのです。
 時にかなっている人の生き方は美しいのですが、時にかなわない生き方はみにくいです。働くべき時に怠けていたり、建てるべき時に壊したりするのは神のわざではありません。

永遠を思う
 しかし、何が神のわざであるかは、
人にはなかなか見分けることができない場合があります。

 「神のなされることは、皆その時にかなって美しい。
  神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
  それでもなお、人は神のなされるわざを初めから
  終りまで見きわめることはできない」(11節)

 「永遠を思う」のは人間の特徴です。尊い心の働きです。哲学とか、
思想とか、信仰とかはその働きなのです。
 * 私は中学2年の時、幼友達が突然病気で死にました。人は死んで
どうなるのだろうか。消滅してしまうのだろうか。そんなはずはない。と
色々考えました。「永遠」を思ったのです。
そして、その結果神様に出会いました。
 「永遠」(オーラーム)とは、「限りなく続くとき」を意味します。
現在という時点に立って、過去へ限りなく続く時があり、逆に未来へ
限りなく続く時がある。これが聖書の言う「永遠」なのです。
ですから神様こそ永遠の神です。
 私たちは永遠の神様によって天で生まれ、天からこの世に来て人間の肉体をもって一定の生涯を過ごし、又、再び天に帰って行く存在であります。ですから「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」(申命記33:27)と言われるのです。
 * 先日、伊藤好子先生が入院される前の日に、私が紹介していただいた先生の後見人の吉田氏が言われました、「伊藤さん、あなたはガンで死ぬなんて思っちゃいけませんよ。そうでなくて、あなたはズゥーッと
生きるんです」と両手を斜めに下から上方へと、力強く伸ばしました。
正しく主が彼の口をとおして語られているようでした。

日々を大切に生きる
 神様の永遠の腕に支えられた人生だと悟れば、心にゆとりが生まれます。日々を大切に生きる気持ちになってきます。ただ無意味な時の流れに流されて生きているのではなくて、神様とのつながりの中で楽しんで
生きて行くことができます。

 「わたしは知っている。人はその生きながらえている間、
  楽しく愉快にすごすよりほかに良いことはない。
  またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって
  楽しみを得ることは神の賜物である。〜〜」 (12〜15節)

 或る聖書の註解者は、「ソロモンが未だキリストにある永遠の生命を
知らなかったので、このような低俗な楽しみしか見出せなかったのだ」と批判していますが、それは見当違いの見方です。ソロモンは人生の過去をも未来をも知り尽くし、見極めることが出来ない人間にとって、最善の生き方は、現在与えられている恵みを神の賜物として感謝して楽しむことだと悟ったのです。これは高尚な霊智です。飲食の問題だけではありません。
 今、この時代に、この人生の中で私たちが精一杯取り組んで行く事柄の価値は、あまり軽軽しく批評できない場合が多いです。
 * 例えば、赤穂浪士の討ち入りだってそうです。討ち入りの前日、
両国橋のたもとで宝井其角が大高源吾と出会ったとき、其角が上の句を詠みました。 「年の瀬や 水の流れと人の身は」 源吾が下の句を加えました、 「明日待たるる その宝舟」  源吾にとって討ち入りの日は宝舟だったのです。 それは武士としての本懐を遂げる大切な日でした。 日本歴史の中でこの出来事は高く評価されていますが、神様の救いの歴史の中ではどうでしょうか? 物事を表面だけで見るクリスチャンには、ただの仇討物語でしかないでしょう。しかし、主君のために身命を惜しまないで献げつくす精神は、主イエス・キリストのために身命を献げつくすクリスチャンの精神に通じています。
 主イエス様が私たちの人生を永遠の御腕で支えていて下さることを
思いましょう。                            アーメン

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