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試錬の効果
ヤコブ1:1〜4 ダニエル12:1〜4 マタイ5:10〜12 皆川尚一牧師 |
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変えられたヤコブ 神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、 離散している12部族の人々へ、あいさつをおくる(1節)。 ここには「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブ」とありますが、ヤコブは初めからそう思っていたわけではありません。というのはこのヤコブが主イエス様の実の弟であったからです(マルコ6:3、マタイ13:55)。肉親とか家族とかいうのは、あまり身近にいるために人の偉大さを見分ける事ができにくいものです。「山に入る者は山を見ず」と言う諺のように、木ばかり見えて山が見えないのです。イエス様のご家族は父のヨセフが早く死んでこの世を去り、母マリヤとイエスの弟たちヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、それから妹たちから成っていたようです。イエス様の伝道期間中この人たちはイエス様の行っている事が理解できなかったし、狂っていると思って取り押さえるために家族総出でやってきて、イエス様が説教している家の外から呼び出しをかけたことがありました。それに対してイエス様は応じようとはせず、反ってそこにいた人たちに「ごらんなさい、ここにわたしの母、私の兄弟がいる。神のみこころを行う者は誰でも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われました(マルコ3:21、31〜35)。 また、弟たちがイエス様に対して、ガリラヤあたりでこそこそしていないで、エルサレムへ行って堂々と伝道したらどうかと勧めた時も、イエス様は「わたしの時は未だ来ていない」と全く耳をかしておられません。 「こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである」 (ヨハネ福音書7:1〜5)と使徒ヨハネは説明しています。 なぜ彼らには、イエス様が理解できなかったのでしょうか。ヤコブは 律法(トーラー)に忠実な典型的、模範的ユダヤ人で、律法学者やパリサイ人から多大の尊敬と信頼とを勝ち得ていた祈り深い人でもありました。ユダヤ教の伝統と祭儀と祈りを重んじて、その枠から中々出る事ができなかったように思われます。 ところがイエス様はそうでなかったのです。イエス様は、律法(トーラー)を重んじましたが、その形式にとらわれず、その精神を重んじてしばしば、伝統や風習を越えて自由に振舞われました。又、エッセネ派の秘儀(カバラー)にも通じておられましたが、その枠をも越えて行動されました。伝説によれば、イエス様はペルシャのゾロアスター教やインドのヒンズー教、仏教、チベットのラマ教までも学んで、それらを越えて、天の父なる神様の御声を聴き、聖霊の導きに従い、又、聖霊の力によってカリスマ的な宣教活動を進められたのです。だから、ヤコブをはじめ弟たち妹たちには、イエス様の教えや働きが容易には受け入れにくかったのでしょう。 しかし、イエス様の十字架の死が近づいたある時期から、彼らの信仰の転機が訪れたのです。 「へブル人福音書」という外典によれば、最後の晩餐の時にはヤコブもその食卓についていて、主の杯を飲んだあと、彼は誓いました、「死人の中から主が甦られたのを見るまでは決してパンを食べない」と。本当に彼はそうしたのです。そこでイエス様は墓から甦られますと、すぐヤコブの前に現われて言われました、「食事とパンの用意をさせなさい」。そして、主はパンを取り、これを祝福し、裂いてヤコブに与えて言われました。 「取って食べよ、人の子は死人の中から甦ったのだから」と。ですから 使徒パウロが復活の主に出会った人たちの名を挙げた時、「そののち、ヤコブに現われ、つぎに、すべての使徒たちに現われ」(Tコリント15:7)と記しているのです。こうして、主の昇天後エルサレムに集まった120名ほどの弟子たちの中に、イエス様の母マリヤ様も弟たち妹たちも全部 一緒にいてペンテコステの日に天から降ってきた聖霊によって満たされたのでした。 ヤコブもまた聖霊で満たされた義人ヤコブとなり、エルサレム教会の トップの指導者として尊ばれる人になりました。しかしながら彼は自分の事を主イエス・キリストの「僕」(ドゥーロス)だというのです。彼こそ主イエスの実弟であり、キリストの使徒であったのですが、そういう肩書きを 一切用いようとせず、「僕、奴隷」の肩書きだけを称えました。それは 主イエスに対する絶対的な服従、絶対的な謙遜、絶対的な忠誠、そして絶対的な献身の表明にほかなりません。とにかくヤコブは変えられたのです。その変化は多くの試錬によって生じたのではないかと想像されます。聖霊に自由自在に用いられる一般ユダヤ人の常識や伝統を越えたイエス様の言動に対する迫害がイエス様に加えられれば加えられるほど、家族に対する風当たりも強くなり、イエス様に降りかかる火の粉は家族にも否応なく降りかかったわけですから、ヤコブもまた誤解、非難中傷の渦の中で苦しみ傷つくことも多かったのではないでしょうか。 聖母マリヤへのシメオンの預言のとおりです。 「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり 立ち上がらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、 定められています。〜そして、あなた自身もつるぎで胸を 刺し貫かれるでしょう〜それは多くの人の心にある思いが 現われるようになるためです」(ルカ2:34〜35)。 それをただ迷惑だとか不幸だとか言う気持ちで受け取る人には、何のプラスにもなりません。しかし、逆にそうした試錬の中で神様に祈り、何のための苦しみかの答えを熱心に待ち望む人にはヤコブのような素晴らしい変化の訪れる日がくるでしょう。 試錬の効果 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、 それをむしろ非常に喜ばしい事と思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、何ら欠点のない、完全なでき上がった人となるように、 その忍耐力を十分に働かせるがよい(2〜4節)。 これはヤコブが自分の痛切な人生の経験に基づいて言っている言葉なのです。いろいろな悲しい目に会い、苦しい思いをする時、これを嘆いたりうらんだり、自分を可哀想な人間だと自己憐憫にとらわれるのをやめて、これは「試錬」(ペイラスモス)だと思うことが大切なんだと教えています。試錬というのは目的がある苦しみです。つまり、神様があなたを強く立派な人に進歩向上させようとして苦しみを課すわけです。 オリンピックのマラソンで優勝した高橋尚子選手は小出義雄という良い監督に出会って鍛え上げられた結果、あの伸び伸びとした素晴らしい 走りに到達したのでした。「日本のマラソンは我慢のマラソンです」とテレビの解説者は語っていましたが、ただの我慢ではなく「忍耐」なのだと 聖書は教えています。優勝の希望が示されるから、試錬が喜びとなり、忍耐力が生み出されるのです。 皆さん、神様も小出監督と同じです。私たちをイエス・キリストの愛と 苦難と死と復活とによって、この苦難と罪の人生の泥沼から贖い出してくださり、天の栄光を目指して生きよと慰め励ましてくださっているのです。希望と愛情で強く支えていてくださる天の父なる神様と主イエス・キリスト様とを信じましょう。神様の愛に信頼する事が大切なのです。 試錬の効果は二つあります。 第一は「信仰がためされることによって忍耐が生み出される」ことです。 昨日、テレビで「知ってるつもり」という番組を見ました。それは漫画 「サザエさん」で有名な長谷川町子さんの一家の話でした。町子さんの ご両親はクリスチャンで、お父様が召される時、「神様がお前たちを守っていて下さるから、何があっても大丈夫だ。わたしは安心している」と言われたそうです。この遺言の言葉が、その後いろいろな試錬の時に常に強い支えとなったのだそうです。祈って行けば道が開かれる。幼い時から画を描くのが好きで、漫画を発表して入賞したり、上京して、田河水泡の弟子になったり、だんだん上達して行くわけです。 第二は、「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人になる」ことです。それは完全な人になるという意味ではありません。いわば「達人になる」ということです。高橋選手はマラソンの達人、ヤワラちゃんは柔道の人、長谷川町子は漫画の達人、それと同じように、わたしたちがそれぞれの持ち味や特色を生かして、神の子供として、伸び伸びと力強く成長し、ついにある境地にまで到達することです。 神様はわたしたちを守っていて下さるから、何があっても大丈夫です。 試錬の効果はきっと上がります。 アーメン |
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