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誠実な言葉
ヤコブ5:12 箴言6:16〜19 マタイ5:33〜37 皆川尚一牧師 |
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いっさい誓うな さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。 天をさしても、地をさしても、 あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、 いっさい誓ってはならない。 むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。 そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる (ヤコブ5章12節)。 ここで使徒ヤコブは「いっさい誓うな」と戒めています。これは主イエス様の教えと一致しています。イエス様も「いっさい誓ってはならない」と 言われました(マタイ5:34)。 それにもかかわらず、わたしたちは今日この礼拝の中で教会学校教師任職式を執り行うにあたり、その中で誓約をすることになっています。 それは主の教えにそむくことになるのでしょうか? そうではありません。その理由はあとから取り上げることにして、今ここでは、なぜいっさい誓うなと言われたのかの理由の方を先にお話ししたいと思います。 古代ユダヤ人の世界では、二つの邪悪な偽りごとがありました。 第一は、拘束力のある誓いと拘束力のない誓いとを区別したことです。つまり「神かけて誓う」と言った場合は絶対に果たさなくてはならない。 しかし、神様を引き合いに出さなかった場合は果たさなくてもよいというのです。そこでなるべく神の御名をとなえないで、「天をさして誓う」とか、 「地をさして誓う」とか、「エルサレム」、「神殿」、「自分の頭」などをさして誓うことにしました。そうすれば都合の悪い場合には誓いを果たさなくてもよいと考えたわけです。 第二は、当時頻繁に誓いを立てることが行われていたのです。誓いは特別な場合に立てるものだからこそ、尊敬されるのであって、頻繁に 日常的に立てられたら値打ちが下がります。また、頻繁に誓うということ自体、盛んにウソをついているということにもなるでしょう。 古代世界の知者、賢者たちはみな、こうした悪い風習を戒めています。イエス様が若い頃修行されたユダヤ教のエッセネ派ではいっさいの誓いを禁じていました。そして、イエス様は天も地もエルサレムも神殿も祭壇も人間の頭もすべて神様によって聖なるものとされているのだから、 神かけて誓うのと同じだと宣言しておられます。だから、「自分の不誠実をおおいかくすための誓いなど、いっさいするな」と言っておられるのです(マタイ23:16〜22)。従って、「いっさい誓うな」とは、誠実な約束を否定するような戒めではありません。 誠実な言葉 「むしろ、『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』としなさい。 そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる」(12節後半)。 つまり、「はい」と「いいえ」とをハッキリ言う。「できます」と「できません」をハッキリ言う。言ったことはできるだけ誠実に実行するということです。 この人間社会は、みなそういう契約の上に成り立っています。 「守るかどうかわかりません」というのでは、クレジットなど全く成り立たないわけです。 実は、神様ご自身が私たち人間との間に、救いの契約を結んで実行しておいでになります。旧約聖書とは神様の旧い契約の書であり、新約聖書とは神様の新しい契約の書であります。神様は旧い契約に基づいて神の独り子をイエス・キリストとしてこの世に受肉させ、御子の贖いの血潮をもって人類の罪を赦し、潔めてお救いくださるとの新しい契約を結ばれたのです。 だから、わたしたちは神様の誠実な救いの契約を信じてそれを受け入れ、罪を悔い改めてバプテスマを受け、身体も心も主に献げるのです。 このバプテスマの時に真心から献身の誓約をします。それは神様の誠実に応える私たちの誠実の表明なのです。 しかし、そのように真心から 誓約したにもかかわらず、礼拝を守らなかったり、献金をしなかったり、気に入らないことがあると教会をたやすく離れ去ったりする人が少なく ありません。人間は実にわがままで、自己中心で、弱いものです。 「では、誓約などしない方がましだ」と言えるでしょうか? そうではないと思います。人の弱さを主はよくご存知で、助けて下さる からです。私たちは真心から誠実な言葉で誓約をする。そして、神様がそれを助け、保証し、持ち運んでくださることに信頼するのです。洗礼や献身は神様に対する約束ですから、誠実な主は必ず守り導いてくださるでしょう。ただ私たちがそむいて離れることはあります。それでも主は 悔い改めのチャンスを後から与えてくださいます。 ペテロのことを考えてみましょう。彼は最後の晩餐の時「牢獄までも 死にまでもイエス様について行きます」と言いました。それは彼にとって誠実な言葉でした。けれどイエス様はその夜ペテロも他の弟子たちも、みなイエス様を捨てて逃げ去ることを予知しておられました。そして予告した上でペテロに言われました。 「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」 (ルカ22:31〜32)。 イエス様はこのように約束して、ペテロのために祈られただけでなく、 復活後、第一番にペテロに現れて彼を赦し、力づけて下さり、ガリラヤ湖の岸辺で再会して彼に教会の牧者としての召命をお与えになったのです(ヨハネ21:15〜19)。だから、私たちはバプテスマの時に誓約します。また、教会の職務に任職されるときに誓約します。また、結婚式の時にも誓約をします。 * 今から30年ほど前、この教会で結婚式を挙げた若いカップルが ありました。新郎のO兄弟は生真面目な人で、「イエス様がいっさい誓うなと言われたし、自分が約束を絶対守れるとは言いきれませんから、 誓約はしません」と頑固に主張しました。それで司式者のわたしが誓約の時に「あなたは健やかな時も病む時も、この姉妹に対し固く節操を守ることを誓約しますか」と尋ねると、「できるだけそうします」と答えました。何だか変な感じでしたが、こういう結婚式は、あとにも先にも彼らだけで した。しかし、彼らは神様に信頼して祈りつつ歩いてきましたから、 守られています。 神の誠実に信頼しよう 主イエス様や使徒たちが教えられたことは、誠実な言葉を用いるということです。「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」とする。「はい」と言いながら実行しないことによって、相手に「いいえ」という自分の気持ちを表明 するといった人がおりますが、実にややこしい話です。幾度も支配者が交代する京都や中国(チャイナ)などでは、ウソとマコトがはっきりしないのが生きる知恵になっています。日本では「武士に二言はない」とか、 侠客の世界では、「利根川の流れが逆さまに流れない限り」とか 「富士のお山が逆さまに立つことがない限り」この約束は守りますとか 言ったそうです。 しかし、神様が望まれるのは長々と持って回ったような説明ではなく、 「はい、そうします」とか、「いいえ、できません」とか、誠実な言葉を簡潔に述べて、約束したことを実行していくことです。そして、周りの人々は、神様の誠実な守りに信頼して祈ってあげることが大切です。 しかし、どんな約束をしても、絶対的なものとしないで、変わっても とがめず、許し合い、補い合って行くのが神の子の誠実でありましょう。 アーメン |
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