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  疑うと損をする

   ヤコブ1:5〜8
   箴言2:1〜6
   マルコ11:20〜24                皆川尚一牧師
無知の知
  あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、
  その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、
  願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。
  疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
  そういう人は、主から何かをいただけるもののように
  思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、
  そのすべての行動に安定がない(ヤコブ1章5〜8節)。

 これは前の4節の「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように忍耐力を十分に働かせるがよい」を受けて言われている言葉です。しかし世の中に欠けた所が一つもない人などはいないでしょう。人生の達人になるためには知恵が必要です。そして実は全ての人が知恵に不足している人だと言えるのではないでしょうか。「自分には知恵が足りない、無知である、もっと知恵がほしい」と思う人は謙虚な人です。そういう人は知恵を求める資格があります。
 キリスト以前のクリスチャンともいわれたギリシャのソクラテスは「無知の知が大切だ」と説きました。つまり自分が無知だと知ることから知恵を愛し、知恵を追求することが始まるからです。ギリシャ語では「哲学」のことを「フィロソフィア」と言います。それは「知恵を愛する」という意味です。  では知恵を求める資格がない人というのはどんな人でしょうか。それは限りある自分の知恵に満足して、ほかの知恵を受け付けない人、あるいは、どうせ自分は馬鹿だとあきらめて、すべての知恵をあざける人です。箴言では知恵そのものが人を招いています。

 「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。
  知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。知恵ある者に教訓を
  授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、
  彼は学に進む。主を畏れることは知恵のもとである。
  聖なる者を知ることは、悟りである」(箴言9:8〜10)。

神に知恵を求める
 知恵を愛し、知恵を求めることは、このように非常に大切なことですが、次に注意すべきことは、「だれに知恵を求めるか」ということです。
世の中には知者、賢者、達人、導師、大師、グルとか言われる人々が
沢山います。従ってだれに知恵を求めるかということは重要な問題です。  知者として知られたギリシャのソクラテスは、常に、道を歩く時も家にいる時も、何かをしている時も、神霊の語りかける声に耳を傾けていたと言う話です。それがどういう神霊であったかはわかりませんが、彼の生涯や教訓や実際生活を見れば良い霊であったことは確かでしょう。
 しかし、それだけでは不充分です。古代から現代に至るまで天界から来る天使たちや聖徒たちの訪問を受けて教えられた人々も多くいます。それらの中には天使に偽装した悪魔・悪霊たちもまじっていて、誤った
情報を人々に伝えて混乱におとしいれたりするので、気をつけなければなりません。
 * 例えばGLAのグル(導師)であった高橋信次は仏陀の生まれ変わりであって、死んでからキリストと同じ第九天界に挙げられて人々を導いているとか。その娘の高橋佳子は天使ミカエルの生まれ変わりだとか。
キリストもモーセも仏陀も同等の最高級霊だとか。
皆偽りです。天使は転生しません。
 これらの偽りは聖書に照らして見れば明らかになります。キリストは
全知全能の父なる神の独り子で、神の現れ、神の輝き、神の知恵、
神の言として天地万物を創造されたお方です。人の中でも、天使の中でもキリストに比べ得るお方はありません。新約聖書は、

 「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、
  いっさい隠されている」(コロサイ2:3)。

 「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
 義と聖とあがないとになられたのである」(Iコリント1:30)

と証ししています。ですからわたしたちは主イエス・キリスト様と神の言である聖書に知恵を求めることが、一切の健全な知恵の源だと信ずるの
です。
 そこで、神様に求めるべき知恵は二通りあります。
第一は、「救いに至る知恵」です。

 「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、
  いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか
  知っており、また幼い時から聖書に親しみ、それが、
  キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、
  あなたに与えうる書物であることを知っている(Uテモテ3:14〜15)。

 ですから「救いに至る知恵」とは主イエスキリスト様を信ずることです。初代のクリスチャンは「イエス・キリスト、神の子、救い主」というギリシャ語の頭文字をとって魚(イクスス)のシンボルをクリスチャンの表象
(しるし)としました。
 第二は、「実際生活上の知恵」です。 ヤコブの手紙では、神様が気前よく、惜しみなく必要な知恵を与えて下さると約束しています。そのような神様の愛を信頼して、疑わないで求めることを勧めています。「二心の者」というのは、信じる心と同時に疑う心を持っている人のことです。私たちは時々信じて歩き出したのに、心配になって疑う心にとらわれることが
あります。
 * 例えば、26年前まだソビエト連邦が共産主義国でキリスト教を激しく弾圧し、聖書を印刷することを許さなかった頃のことです。上田君という兄弟がロシア語の聖書をスーツケースに詰め込んで、ナホトカまで船で行き、モスクワの教会へ届けることになりました。私は上田君と二人で
横浜駅ビルの屋上にあがって祈りました。そして、「神様の助けが現れる時には虹が見えるから、良く注意して行ってください」とアドバイスしたのです。上田君がナホトカに着いたとき、心に恐れと心配が生じて、他の
乗客たちが全部港に上がってしまっても、船室で「神様助けて下さい」と祈っていました。祈り終わってふと目を上げると、船室の丸い窓という窓が虹の色に輝いていました。「ああ、神様が助けてくれるしるしだ」と直感して勇気が湧いて港に上がり、税関に入ると、三人の兵士がそれぞれ
荷物を開いて調べていました。良く注意して見ていると、中の一人の兵士が割と簡単に調べているのがわかり、その列について行って無事に検査をパスすることができたのです。
 * 今一つの実例は、桜美林学園設立の時のお話です。桜美林学園の創立者清水安三先生は、戦前北京で崇貞学園を経営しておられたのですが、敗戦後日本に引き揚げてきて、町田市にある兵舎の払い下げを受け、桜美林学園を作ることにしました。入学申込者は意外と沢山集まったのですが、文部省の認可が中々下りません。ある日徹夜の祈りをして、文部省に言って頼みましたが、日本での実績がないからだめだと事務官は相手にしてくれませんでした。それでもなお、清水先生は神様に依り頼んで、締め出されたドアの外にひざまづいて祈っていました。
するとドアが開いて「清水先生」と呼ぶ声がします。驚いて顔を上げると、先ほどの事務官の上役の人がニコニコして立っていました。「私は戦争中、あなたの北京の崇貞学園に視察に行き、面会を求めたところ、授業中だからだれにもあえないと断られて帰ってきたものです。それは反って私を感動させました。私は近く地方の高校の校長に転出することになって、今日は最後の登庁です。置き土産にあなたの学園の認可を与えて行きましょう。どうぞしっかりやってください」と言って励ましました。
 このように、皆さん、イエス・キリストの御名で神様に祈るとき、知恵が与えられ、良い答えが来るのです。疑うと損をします。       アーメン

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