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  憐れみは最高

   ヤコブ2:1〜13
   出エジプト22:21〜27
   マタイ25:31〜46                 皆川尚一牧師
神の裁きの基準
 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。
 あわれみは、さばきにうち勝つ(ヤコブ2章13節)。

 前回このみことばを解き明かした時には、貧しい者、弱い者を差別しないように、憐れみの心が大切なのだという意味を強く取り上げました。
それは、私たちが先ず神様から絶大な憐れみを受けていて、御子イエス・キリスト様を通して、罪の赦しと永遠の命を与えられるようになったからです。
 そこで今回は、神の裁きの基準は「憐れみ」なのだということに焦点を合わせて見ましょう。これは《マタイ25:31〜46》でイエス様が語られた
最後の審判の光景を思い出させてくれます。
 イエス様は人類の歴史の終末にあたり、最後の審判を主宰する裁判官として天から下って来て栄光の座にお着きになります。そして全人類を御座の前に集めて羊と山羊とに分けられます。羊は白く、山羊は黒いのでハッキリと区別することができるのです。その選別の基準は「憐れみ」です。憐れみの心のある者は羊、憐れみの心のない者は山羊です。
 右のほうに集められた白い羊のような人々に対して、主は言われます
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに
飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気の
ときに見舞い、獄にいたときにたずねてくれた」と。そのとき義人(憐れみの心をもつ人)は尋ねます、「主よいつわたしはあなたにそういう事をしましたか?」と。主は答えます、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さいもののひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と。
 他方、左のほうに集められた黒い山羊のような人々に対しては、これと逆のことが言われます。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の
ひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」と。
ここでは怠りの罪が問われています。親切にすることができるのにしなかった、無視していた、無関心であった、ということです。

だれが主の兄弟か
 では一体、主イエス様は、だれのことを「わたしの兄弟」と呼んでいるのでしょうか?
 クリスチャンは直ぐに答えて言うでしょう、「それはもちろんクリスチャンです」と。そうです、イエス様はマタイによる福音書の中だけでもいたるところでそう語っておられます。
 * 「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。〜 〜 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、決してその報いから
もれることはない」(マタイ10:40〜42)。
 * 「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、
わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(12:50)。
 * 「わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、
大きなひきうすを首にかけられて海の深みに静められる方が、
その人の益になる」(18:6)。
 それはイエス様とイエス様を本当に信じている人とは一体関係になりますから、イエス様は「わたしの兄弟」と言って下さるのです。つまりキリストにある人々はお互いに兄弟姉妹なのです。それはキリストの共同体で
あって、聖霊による霊的共同体ですから、愛と憐れみとをもってお互いに受け入れ合う必要があります。 このことはイスラエル民族の霊的共同体においても同じようでしたし、もっと広い意味で民族を超えた愛と憐れみが教えられています。《出エジプト記22:21〜27》を見てください。

 「あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人で
あったからである。あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましては
ならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。〜 〜」。

 神様はすでに旧約聖書の律法の中で、イスラエルの信仰共同体以外の他国人や、寡婦、孤児などをご自分のものと見ておられることが分かります。ユダヤ教徒だけが神様のものでもない。キリスト教徒だけが神様のものではない。アブラハムとその子孫は全世界全人類の祝福の基と
されたのです。その子孫の中に神の御子が救い主として遣わされたのですから、主イエス様はすべての人の救い主です。初めのアダムから出た人類は、神様に背いて不従順の世を作りましたけれど、終りのアダムであるイエス・キリスト様を通して、神様に従順な人類が神の国を形成するようになるのです。これはすべて、聖霊の愛と憐れみの力によってなされます。主イエス様を信じて従う人を通して、聖霊の愛と憐れみがこの世に注ぎ込まれます。まだ信者となっていない人も、みな救われるべき神の子供たちと見ていけば、人の見方が変わってきます。
 * 以前、ある伝道者が語っていました、「電車に乗って中を見回した
とき、どれもこれも皆汚れた罪人だと思うとみんな馬鹿に見えてきた。
それで、ああ、これではいけない。どの人もキリストに愛された救われるべき人だ、と考えてみまわしたら、みんな尊い人に見えてきた。だから
私たちはちょっと視点を変えれば正反対の見方ができるんだ」と。

憐れみは最高
 どの人もどの人もキリストに愛されている人、救われるべき人と見る
ならば、愛と憐れみの視野はもっと広がるでしょう。まだキリストを知らずキリストを信じていない人の中にもキリストを見ることができるでしょう。
 * マザー・テレサの詩にこういうのがあります。

 わが患者イエス。最愛の主よ。今も、いつも、あなたの大切な
  病人の一人一人のうちに、あなたを見ることができますように。
  あなたに仕えることができますように――。
  いらいらさせられる人、気難しい人、理屈に合わないことを言う人の、
  好ましくない外見のもとに隠れているあなたを見分けて、
  こう言えますように――。 わが患者イエス。あなたに仕えることは
  なんと楽しいことでしょう。

 私たちは、しばしば、クリスチャンだから親切にしなくてはいけない、
優しくしなくてはいけないと考えることがあるでしょう。そうすれば羊になれるとか。もし不親切にすれば、山羊だと言われるとか。地獄に落ちるとか。私たちは天国に入りたくて親切にしたり、クリスチャンだから優しくしたくなくても優しい顔を見せたりするのではありません。少なくともそれはクリスチャンの原理主義者や見栄っ張りのやることです。マザーテレサは、修道女としてカルカッタの街に行き、行き倒れの貧しい人々を見た時に神様の召しを感じたのです。

  あなたたちは
  わたしが飢えていた時に食べさせ、
  渇いている時に飲ませ、旅にいた時に宿らせ、
  裸だった時に服をくれ、病気だった時に見舞い、
  獄にいた時に訪ねてくれた…。

 このみことばが心に響いたのです。すると憐れみの心が燃え上がったのです。それは聖霊による炎です。
 遠藤周作は「深い河」の中で、大津という神学生に「キリストは弟子の中に転生している」と言わせていますが、転生とは違います。 キリストは弟子の中にいて、人々の中に入っていかれるのでしょう、
その深い憐れみによって。 憐れみは最高です。          アーメン

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