| 2010/2/21の礼拝説教 |
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イエスの先触れ イザヤ40:1〜5 エペソ5:9〜10 マルコ1:1〜8 皆川尚一牧師 |
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神の子イエスの福音 1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 2 預言者イザヤの書に、 「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、 あなたの道を整えさ せるであろう。 3 荒野で呼ばわる者の声がする、 『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』 と書いてあるように 4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改め のバプテスマを宣べ伝えていた。 5 そこでユダヤの全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞく と出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテス マを受けた。 6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、 いなごと野蜜とを食物としていた。 7 彼は宣べ伝えて言った、 『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。 わたしはかがんで、そのくつのひもを、解く値うちもない。 8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によって バプテスマをお授けになるであろう』」(マルコ1:1〜8)。 この福音書は神の子イエス・キリストが神の支配下に罪ある人々を招き入れるために現れたという福音の書であることを宣言しています。 そこで、この物語は神の国の偉大なる王イエス様の先触れとして、パプテスマのヨハネが現れたことを告げるのです。それ自体が福音でした。 日本では昔、殿様の行列が進んでゆく先頭に先触れ、または露払いと言って、「下に居れ、下に居れ」と叫びながら歩く武士がいました。それを聞くと人々は道の両側にひれ伏して殿様を迎えるのです。 これはすでに旧約聖書《イザヤ書40:3》に預言されていました。 「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする。『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」。 それは凸凹の道を真直ぐで、平らな道に作り変えるように、人の心を真直ぐで素直な心に作り変えるのが先触れの使命であることを教えています。そうした先触れの使命を帯びてバプテスマのヨハネがイエス様の前に出現したのです。 バプテスマのヨハネの出現 バプテスマのヨハネの誕生はルカによる福音書第1章に記されています。ヨハネの父は祭司ザカリヤで母はエリサベツでした。エリサベツはイエス様の母マリヤと親戚でしたから、ヨハネもイエス様と親戚で、ヨハネの方がイエス様より6箇月年上でした。ヨハネが生まれる時、ザカリヤは神殿の奥の聖所で香を焚いて祭司の務めをしていましたが、天使が現れて、「ザカリヤの妻エリサベツがみごもって男の子を産む、その子の名をヨハネと名づけなさい」と告げました。ザカリヤは年とった自分たちに子が与えられるはずがないと疑ったので、口が利けなくなりました。天使のお告げの通り、エリサベツはみごもって子を産みましたが、子供の名を「ヨハネ」と名づけたことによって、ザカリヤの罪は赦されて口が利けるようになりました、しかし、この神様の奇跡を人に話したので、祭司階級から迫害を受けて神殿の中で殺されました(マタイ23:35)。祭司階級はサドカイ派と呼ばれて、天使や復活や神秘的な出来事を信じるのはタブーとされていたのです。祭司は世襲制でしが、ヨハネは祭司になることが出来ず、やがてユダの荒野に住むエッセネ派の中に飛び込んで修道士となりました。エッセネ派は神秘的な神との交わりを尊び、厳格に戒律を守る修道士のグループで、ユダの荒野の洞穴の中で修行をしていました。 やがて神の時が来て、ヨハネは神の命に従い洞穴を出て、ヨルダン川のほとりで預言者として活動し始めました。それは罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを授ける働きです。西暦紀元29年頃のことです。ヨハネの名声は小アジアからエジプトまで中近東一帯に響き渡り、沢山の人々がヨハネの許に来てバプテスマを受けました。 イエスの先触れ 罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマは、イエス様と同じメッセージではないかと疑う人もいるでしょう。そういう人々は、ヨハネによる罪の赦しは予備的なもので、イエス様による罪の赦しが本番であると考えるのです。車の免許に例えれば仮免と本免みたいなものだと。しかし、神様の与える罪の赦しに仮免はありません。全部本免です。 この点について、バプテスマのヨハネはこう述べています。 「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」(マルコ1:7)。 これがその違いです。罪の支配下にいた人が神の支配下に入るのには、自分の罪を認めて悔い改めることが必要です。しかし、「神様、わたしの罪をお赦し下さい。もう罪を犯しません。あなたにお従い致します」と告白して水の洗礼を受けても、神の霊によって満たされなければ、神様に従う力は受けられません。聖霊によるバプテスマを受けて、神の霊と深く結ばれるのには、イエス・キリスト様を信じて自分を主に明け渡すことが必要です。その意味では、バプテスマのヨハネはイエス様の先触れにすぎませんでした。ヨハネの声を聞き、ヨハネの指差すイエス様を見て、イエス様の中に自分の全心全霊を投じるならば、救われます。 「自分は正しいが、あの人は間違っている」と思って人を裁くならば、神様はあなた自身を光の中に照らし出して高慢の罪を示されるでしょう。 バプテスマのヨハネは一般的に罪の悔い改めを勧めたばかりでなく。ヘロデ王に兄の妻ヘロデヤを娶った罪を悔い改めるように公然と迫ったので、捕えられて殺されました。 ヨハネどまりの信仰 《エペソ5:8〜9》をご覧下さい。 「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主によって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――主に喜ばれるるものが何であるかを、わきまえ知りなさい」とあります。主に喜ばれることは、自分の罪が赦されたことを感謝し、主の恵みを讃美し、悪意をもって人を見ず、善意と愛とをもって人の罪を赦し、人をいやし、人を生かすために神の光を照らすことです。 バプテスマのヨハネどまりの信仰は罪、罪、罪と人の罪に強い関心をもって悔い改めを人々に迫ることが主の御心であると信じることです。 わたしが神学校を卒業して下関彦島教会に赴任したころには、そういう傾向がありました。それに対して大先輩である下関教会のO牧師はこんな話をしてくれました。「昔、東京信濃町教会のT牧師は、しばしば強烈に罪の悔い改めの説教をする人であった。すると教会員の中に罪を犯す人がどんどん出てきて、しまいには、先生自身が罪を犯して自殺してしまった。罪の悔い改めを迫るよりも、罪の赦しを語る説教の方が人を生かすのではないかと思う」と。 わたしたちも正しい裁きは主にお委ねして、バプテスマのヨハネどまりの信仰から脱け出し、キリストの光の中で喜びと讃美と祝福に輝いて生 きる人になろうではありませんか。 アーメン 次回予告 10.2.28 わたしの愛し子(マルコ1:9〜11) |
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