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                                            2010/7/11の礼拝説教
  神の人への悪口

   列王下2:23〜25
   Uコリント2:15〜17
   マルコ3:19f〜30               皆川尚一牧師
悪いうわさ
  イエスが家にはいられると、群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取り押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その家に押し入って家財を奪いとることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言ったからである(マルコ3:19f〜30)。

  イエス様が再びカペナウムにもどってペテロの家に宿られますと、またもや群衆が集まってきました。病気を癒してほしい者たち、悪霊を追い出してほしい者たちです。イエス様と使徒たちは忙しくてパンを食べる暇もありませんでした。ことに悪霊追放の場合は、イエス様の発する「サタン、この人から出て行け!」との断固たる命令や、サタンが抗弁する叫び声、出て行く時の「ワアーッ!」とか、「ギャーッ!」とかいう叫び声が鳴り響いて大変な騒ぎになります。世間の人々から見れば異常なことです。祭司・律法学者・ラビたちが絶対やらないことをイエス様がやっているので、「イエスが狂っている」という噂が立ちました。これを利用してイエス様を攻撃するためエルサレムから律法学者たちが下って来て、「彼はベルゼブルにとりつかれているのだ」とか、「悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」とか、輪を掛けて悪い噂を流しました。つまりイエス様の聖霊の働きを悪霊の働きだと決め付けたのです。

イエス様の弁明   
  そこで、イエス様は律法学者たちを呼び寄せて弁明されました。
(1)サタンがサタンを追い出したら、サタンの国は内部分裂して滅びる
   ことになるから、そんなことはありえない。だから自分が神の力に
   よってサタンを追い出しているのは明白である(23〜26節)。
(2)次は、強盗の譬です。「だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、
   その家に押し入って家財を奪いとることはできない。縛ってからはじ
   めて、その家を略奪することができる」(27節)。
     
  イエス様は悪霊を強い人になぞらえ、ご自分を悪霊よりもっと強い人になぞらえました。悪霊に取り付かれた人は強い人に占拠された家のようなものだから、その悪霊よりもっと強い人が悪霊を縛りあげて、初めてその人を自由にすることが出来るのだ。従って律法学者たちの言うことは全く見当違いな悪口である。

聖霊をけがす罪  
  それからイエス様は神の人に対する悪口に気をつけるように教えました。世の中には赦される罪と、決して赦されない罪とがある。ここに言う「人の子ら」とはメシアの意味ではなく、「どんな人間でも」という意味です。つまり、一般に人が犯す罪悪や、神様・イエス様に対する悪口は、悔い改めれば赦される罪である。しかし、聖霊をけがす罪は永久に赦されないと。では、聖霊をけがす罪とは何でしょうか。  
  それはイエス様が行っている聖霊の働きを悪霊のしわざだ言ったことです。それが聖霊をけがす罪です。聖なるものを聖なるものと感じないほど恐ろしいことはありません。それは、罪を罪と感じることが出来ないからです。自分を義として恥じないし、罪を悔い改めることが出来ませんから、キリストの救いに与かることができないのです。

はげ頭よ、のぼれ  
  その実例として、旧約聖書の預言者エリシャのことを取り上げます。
《列王下2:23〜26》をご覧下さい。
「彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名を持って彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち42人を裂いた。彼はそこからカルメル山に行き、そこからサマリヤに帰った」。  
  ベテルという町は、ご存知のように、昔ヤコブが野宿をしている時に夢の啓示を受けたところです。天に通じる梯子が立ち、天使たちが上り下りするのを見ました。「ヤコブは神様に守られてハランに行き、またこの地に帰ってくるまで神様はヤコブを離れない」というお告げでした。そこでヤコブは「これはベテル(神の家)だ、天の門だ」と言って、この地をベテルと名づけたのです。そういう由緒のある町である、聖地であると言って町の人々は誇っていましたが、エリシャの時代にはベテルはバアル神という偶像礼拝が盛んで、宗教的には堕落していたのです。  
  ですから、町の大人たちはエリシャが近づいて来るのを嫌いました。
「あんなはげ頭に聖霊が宿るわけがない。偽預言者だ」と嘲り笑っていました。子供たちは大人たちの気持に敏感に反応するものです。大人たちの悪意ある噂話を聞いてガキ大将に率いられた悪ガキたちが多分100人くらいも町から出て行って、エリシャに向かって囃し立てたのでしょう。 「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と。  
  なぜ、はげ頭と聖霊が関係あるかと云うと、律法では、神様に身を献げたナジル人は一生頭を剃らないことになっていました。サムソンが聖霊による怪力を発揮できたのは、彼の髪の毛を通して聖霊がくだったからです。眠っている間に髪の毛を剃られたサムソンは無力になりました。それで、はげ頭の預言者は偽者だとあざ笑ったのです。しかし、神様が立てた預言者は髪の毛があっても、なくても本物です。ベテルの町の人たちは、大人も子供も聖霊をけがす罪を犯したのです。たとい、子供のざれごとであっても、エリシャは赦すことが出来ませんでした。そこで、子供たちをヤーウェの御名で呪いました。すると、近くの林の中から二頭の雌熊が出て来て42人の子供たちを引き裂きました。  
  これは、人間的にはいかにも残酷で、非人道的のように思われるかも知れません。しかし、神様に従う者は祝福され、神に背く者は罰を受けるのは当然のことです。

神の人への悪口  
  昔、私たちの教会が日本キリスト教会に属していた頃のことです。ある教会のK長老が是非転入会させて欲しいと願い出ました。この教会は聖霊の働きが盛んであり、自分も聖霊を経験しているので是非移りたいというのです。向こうの教会の長老会も承認して薦書が来たので受け入れました。その人は良い働きもしましたが、蔭で策謀して教会を動かそうとする人でもありました。ある日の礼拝の最後に、わたしの口から強烈な異言が出ましたが、その解き明かしの言は出ませんでした。  
  すると、礼拝後の報告の時にK長老が立ち上がって、会衆に向かってスピーチをしました。「皆さん、今日の礼拝はこれまでの長い信仰生活の中で私が経験した一番素晴らしい礼拝でした。しかし、皆さんにお勧めしたい。どうか何もかも丸ごと受け入れないで、慎重に吟味して確かめて行くようにして下さい」と。わたしは黙っていました。  
  午後2時頃になって、藤沢の病院から電話連絡がきました。K長老が藤沢駅前で車にはねられて、両脚骨折で入院したという知らせでした。わたしが急いで病院に駆けつけると、K長老はわたしの顔を見るなり、直ぐ言いました、「先生、お赦し下さい。わたしは神様に打たれました。どうか、お赦し下さい」と。彼は老齢であってこともあり、それきり教会の礼拝に参加できなくなりました。わたしはエリシャのように彼を呪ったわけではありませんが、神様は礼拝の最後の強烈な異言によって、彼の本性を光の中に照らし出されたのです。  
  神の人が立つか、倒れるかは、神様ご自身の権威によるのであって、人が裁くべきものではありません。ですから、神の人への悪口を慎み、神の裁きにおゆだねする謙虚な心を大切にしようではありませんか。
                                      アーメン
次回予告 10.7.18 神の家族(マルコ3:31〜35)

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