| 2010/2/28の礼拝説教 |
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わたしの愛し子 イザヤ43:4 I ヨハネ4:7〜10 マルコ1:9〜11 皆川尚一牧師 |
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受洗に至るまで 9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、 ヨハネからバプテスマをお受けになった。 10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとの ように自分に下って来るのを、ごらんになった。11すると天から声 があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者で ある」 (マルコ1:9〜11)。 「そのころ」というのは、バプテスマのヨハネがヨルダン川の岸辺で宣教活動を続けていたある日のことです。イエス様はガリラヤ地方のナザレの村から出て、ヨルダン川のヨハネの許に来られました。 ここで、それまでのイエス様がどんな歩みをして来られたのかを、かいつまんでお話ししたいと思います。12歳までのイエス様は父ヨセフの長男として、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ等の弟たちと家業の建築業を手伝いながら技術を身につけました。そして家庭やシナゴグ(会堂)でトーラー(律法)を暗誦したり、ハラカア、ミドラッシュ、ハガダア等の教訓や様々の掟、習慣、シェモネ・エスレという18の祈祷文等を身につけました。そしてエルサレム神殿での成人式のテストに合格しました。これは、1月24日の説教でお話した通りです。ナザレに帰ってからのイエス様は13歳で家を出て、東方諸国を巡礼する旅に出られ、30歳ころにナザレに帰って来られたようです。この17年の旅の記録は聖書以外の文献に記されています。 さて、イエス様にはすでにご自身が神の子であり、メシア(救い主)であるとの自覚があったと思われます。それゆえ、ヨルダン川に現れたバプテスマのヨハネのうわさを聞いたとき、いよいよご自分が世に現れる時が近づいたと思われたに違いありません。そして、ついに父なる神様の命によってヨハネの許に来て、バプテスマを受けられました。 イエスの受洗 受洗の場所はエリコに近いヨルダン川の渡し場でありました。川幅20メートルほどの緩やかな流れで、深さは底が見えるほどでした。ヨハネの洗礼の仕方は、映画などでは受洗者を川の中に立たせ、激しい「悔い改めよ!」という絶叫と同時にヨハネが受洗者の頭を押さえつけて深い流れの中に沈めることになっています。しかし、マリア・ワルトルタの霊視では、ヨハネが受洗者を川の中に立たせ、大きな貝殻で水を掬って頭から掛ける方式であったようです。その洗礼式の前にヨハネは洗礼志願者と一対一で罪の告白を聞いて、そのあとでバプテスマを授けたようですから、映画のようなやり方ではなかったと思われます。 特に、イエス様の場合は他の人々と違っていました。それは、イエス様が罪のない神の子であったからです。ヨハネはイエス様に対して言いました、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。するとイエス様は答えて言われました、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しい事を成就するのは、われわれに相応しいことである」と。 つまり、イエス様はご自身の罪を悔い改めるためのバプテスマではなく、「世の罪を背負う神の小羊」としてご自身を神に献げるためのバプテスマをヨハネから受けられたのです。 ヨハネはイエス様より劣った人ですが、神様の立てた秩序の中では、神の子イエス様にバプテスマを授ける権威を与えられていました。この権威に従うのが正しいことです。これは、牧師職についても言えることです。洗礼・聖餐を行う権威は神の名において任職された牧師に与えられたもので、その秩序に従うのが正しいことです。ほかの人がみだりに行うべきものではありません。また、洗礼は罪の赦しを受けるためだけではなく、自分を神様に献げるための大切な秘儀(イニシエーション)でもあります。ですから洗礼を受けても自分を神に献げないのは相応しくありません。 わたしの愛し子 さて、イエス様が直ぐに水から上がって岸辺で祈っておられますと、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのをごらんになりました。 鳩といえば、平和の象徴なので、静かに聖霊が降りて来たと思われがちですが、実はそうではありません。鳩が下るときは、バタバタバタッと烈しい羽ばたきの音と共に下って来るのです。のちにペンテコステの日の聖霊は烈風の吹きつけるようなゴォーッという響きと共に下りましたが、イエス様の時も鳩のようなイメージと烈しさとを伴っていました。そして、天から声が聞こえました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 原文のギリシャ語の通りに訳せばこうなります。 「あなたはわたしの愛し子、わたしはあなたを喜んでいるよ」。 天のお父様は優しいおかたです。イエス様がご自身を御父に献げて苦難に満ちたメシアの道に踏み出されたことを祝福して下さったのです。イエス様は前にも増して昼も夜もお父様と愛の会話を交わしながら生きて行かれました。 皆さん、わたしたちにも同じことが起こります。わたしは1966年に聖霊で満たされてから、「尚一、お前を愛してるよ!」という心のとろけそうなイエス様からのラブ・コールを何度も聞きましたし、ニコニコした愛の御顔を霊の目で見て来ました。それはどんな苦難にも耐えることの出来る大きな慰めとなり、力となりました。皆さんも神様の愛し子なのです。素直な心で祈るならばイエス様にお会いすることも出来るし、ラブ・コールも聞こえてきます。 最近のことですが、熊本のLさんという女性は、札幌の濱谷先生と電話で祈るとき真白な髪の毛と真白なおひげのイエス様が、目をつぶって祈るLさんの前に現れてニコニコして下さるのを祈る度に見るそうです。彼女は未だ洗礼を受けていませんが、イエス様を信じて幸せでいっぱいになりました。そして、近くの人、遠くの人のために病の癒しを祈ってあげると聞かれるのです。 どうか、皆さん。わたしたちも聖霊で満たされて神様の愛し子として喜び感謝しつつ、人々の救いのために仕えようではありませんか。 アーメン 次回予告 10.3.7 サタンの試み(マルコ1:12〜13) |
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