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                                            2011/5/1の礼拝説教
  人の僕となる

   イザヤ52:13〜15
   ピリピ2:1〜11
   マルコ10:35〜45               皆川尚一牧師
おのれを捨てること
  さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、
「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにして下さい」。イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。10人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:35〜45)。


  ゼベダイの子ヤコブとヨハネとは兄弟で、イエス様の従弟であり、ペテロと共にイエス様に特別重んじられ、愛された弟子でありました。この3人は高い山の上で、栄光に輝くキリストの姿を見せられましたから、神の国での地位についても、王なるキリストの右大臣、左大臣の座につかせていただきたいと願ったのです。  
  かって彼らは、すべてを捨ててイエス様に従ったはずでした。しかし、今は初めの愛を忘れて栄誉と権力と報いとを求めているのです。わたしたちも、過去の献身や功績の報いを求める心を捨てて、日々新しくおのれを捨てることを求めたいと思います。38節を見て下さい。

イエスの杯を飲む  
  イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(38節)。  
  これはイエス様がこれから受けようとしている恐るべき苦難と十字架の死について言っているのです。主は彼らがそれを思わずに、未来の栄光を求めているのを深く嘆いておられます。しかし、ふたりは「出来ます」と胸を張って答えています。イエス様はそれを否定せず、「あなたがたはきっと出来るであろう」と言われました。そうでした。ヤコブは真っ先に首を切られて殉教の死を遂げ、ヨハネは釜茹での刑や、島流しの刑を受けてもそれに打ち勝って100歳まで長生きしました。ふたり共立派にイエス様の杯を飲んだのです。イエス様には分かっていました。しかし、このふたりを神の国で右大臣、左大臣にすることは、天のお父様のお決めになることで、イエス様が決めることではないと答えられました。

人の僕となれ      
  ところが、これを聞いた他の使徒たちが憤慨し始めました。「ヤコブとヨハネが自分たちを出し抜いて未来の栄誉と権力の座を求めるとはけしからん。おれたちにこそ与えられるべきだ」。つまり彼らも同じような野心を持っていたのです。イエス様はこれに対して弟子たちに言われました。
  「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」  
  イエス様が言われた「仕える人」(デイアコノス)というのは、「埃まみれになって働く人」のことです。また、「僕」(ドゥーロス)とは「奴隷」のことです。 イエス様は「偉くなりたい、一番になりたいと思う者は、人の召使となり、奴隷となれ」と言われるのです。そして、イエス様ご自身が神の栄光を捨てて、「奴隷」の格好になって人間と同じ姿になられたのです(ピリピ2:7)。自分から進んでそうなさったのです。最後の晩餐の時には、自分から進んで弟子たちの汚れた足を洗いました。それは奴隷の仕事でした。そして、「あなた方も互に足を洗い合いなさい」と教えました。  

  例えば、わたしが小学生の頃のことです。わたしより18歳年上の姉が母に言いました、「お父さんが暴君のようだったから、お母さんの一生は忍従の生涯だったわね」と。すると母は姉がいない時にわたしに言いました、「芳子はああいうけれど、そんなことはなかったんだよ、夫婦だもの、愛があるんだからね。あんなことを言うとお父さんに悪いよ」と。つまり、母は愛があるから喜んで奴隷のように父の言う通りに仕えたのです。 イエス様もそれと同じく、愛のゆえに人の奴隷となれと言われるのです。

報いは隠されている   
  では、愛のゆえに人の奴隷となって苦労した報いはどうなるのでしょうか。ヤコブやヨハネは天国で右大臣、左大臣になることを報いとして望みましたが、イエス様は「それはわたしが決めることではなく、備えられた人にだけゆるされたことだ」と言われました。つまり、どんな報いを与えるかは、神様だけがお決めになることなのです。

  ここでわたしは一つの詩をご紹介したいと思います。それは3歳半でこの世を去った長男の道男くんを捜して陰府に行った山中さんという父親の胃癌手術による臨死体験を記したものです。

  「再びめぐり会う日よ
  このときあらわるるものあり  
  大いなる机 椅子 厚き本…  
  見あぐれば  
  赤ら顔なる男  
  大いなる身体に太き髭にて  
  《さあ ゆっくり気を落ち着けて話そうではないか》  
  《山中光男君といったね 君は》  
  《はあ》  
  《もっと腹に力を入れて返事をする》  
  《こどもたちは感心だな 親に教えられなくたって素晴らしい声だ  
  この部屋がぶっとんでしまうような声だよ》  
  《道男君のことだろう きみの言おうとしているのは》  
  《そ、そうです》  
  《立派だった 道男君は大きな声を出していたよ》  
  さりげなく言いし言葉よ  
  男どっしり立ち上がり大福帳の厚きもの  
  しきりにめくるようすなり  

  《道男君は至極元気だ まずこれだけ言って君を安心させておこう》  
  《はあっ ありがとうございます ありがとうございます》  
  《あっはっはっはッ わしはどうも人を喜ばすのがうれしくてね》  
  《道男はしかし可哀想でした… わたしたちの生きていた世の中では
  わずか3年半にも満たぬ短命でありました》  
  《短命だって…?》  
  笑顔なりし男 にわかに真面目なありていにて  
  《短命だって 冗談じゃない……道男君は長命だ 
  楽しい健やかな生涯を充分に味わってこっちへ来たんだよ》  
  《君の方がずっと短命なのだ》  
  男 からから笑いたり  
  《ひとつお伺いしたいのですが 
  あなたは生前何をなさっていたのです か》  
  《まあ 大臣のようなことをやっていた》  
  《では ただいまは…?》  
  《ごらんのとおり番人だ》  
  《番人…》    

  男 にわかに輝きつつ  
  いつくしみ深き相貌よ  

  《君 人間こそが 仕事よりはるかに大きなものなんだよ  
  わかったかい》  

  もはや部屋もなく男もなく  
  ほのかに暗き霧のうち  
  ゆらぐ小さき光あり  

  以上が天国の報いを暗示する詩です。伝説では使徒ペテロは天国の門番をしていると言われます。神様が与えて下さる役割が何であろうと、その価値は仕事ではなく人間にあるのです。神様に愛されて生きることに優る報いがどこにあるでしょうか。隠された報いの一部をすでに味わいながら,人の僕となって愛の労苦をささげて行こうではありませんか。
                                       アーメン
次回予告 11.5.8 主を呼び求めよ(マルコ10:46〜52)

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