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                                        2001年11月4日の礼拝説教
  恵みの中に立て

   Tペテロ5:12〜14
   創世記6:5〜10
   ヨハネ15:7〜9                  皆川尚一牧師
恵みの中に立て
  わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、
  この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、
  また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。
  この恵みのうちに、かたく立っていなさい。
  あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、
  ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。
  愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。
  キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように」(12〜14節)。

 この手紙の大部分はシルワノというすぐれた使徒であり、預言者である人がペテロの口述書記を務めて書いたものであって、今日読んだ最後の[12節〜14節]だけが使徒ペテロの直筆なのです。
こういう手紙の書き方はよくあることのようです。
 ですから、いわばペテロの伝えたい一番重要なメッセージの中心が
ここにあります。それは短い一句です。それは、「この恵みの中に立て」
(12節)という一句であります。
 まず、「この恵み」というのは、ペテロの手紙全体に書きしるされた
「神の愛と救い」のことをひっくるめて言ったものと思われます。神の恵みの中心は、神様が独り子イエス様を全人類の救い主として天から送って下さったことであります。これは神様の恵みの極致、極限を示すものです。この救いの恵みにすがって、私たちは罪とがを赦され、神の子とせられ、永遠の命に生きる人に生まれ変わりました。それは、いわゆる「神と共に歩む輝かしい人生」なのです。人生最悪の状況の中にでも神の愛がくだり、救いが現われ、奇跡が起こり、喜びと感謝にあふれることが出来ます。
 * 例えば、シルワノがシラスというギリシャ名で、使徒パウロと一緒にマケドニアに伝道しました。ある日ピリピという町で伝道していて、ある女から占いの霊を追い出しました。するとその女を使って金儲けをしていた主人が怒って、市の長官に二人を営業妨害の罪で告訴したのです。
長官は二人を取り調べもせずに鞭打ちの刑にして重罪犯人として牢獄にぶちこみ、両手は鎖でつなぎ、両足はしっかり足かせを掛けさせました。こんなに残酷な取り扱いを受け、体中血だるまのようになっていた時でも、パウロとシラスは神の恵みの中に立っていたのです。

  「真夜中ごろ、パウロとシラスは神に祈り、
    さんびを歌いつづけました」(使徒16:25)。

 普通の人なら、なげいたり、うらんだり、愚痴をこぼしたり、うめいたり、役人を口汚くののしったりするところでしょう。しかし、この二人はすべてを神の恵みとして受け止めて、神様に感謝の祈りをささげ、救いを求め、讃美の歌を歌いました。これが恵みの中に立つということです。そうしたら奇跡が起こりました。大地震が起こって、牢獄の扉が開きました。囚人たちの鎖も足かせも解けてしまいました。にもかかわらず、逃げた囚人はひとりもいませんでした。これが第2の奇跡です。これを見た牢獄の
責任者は主イエス・キリストを救い主様と信じて救われ、一家そろって
バプテスマを受けました。これが第3の奇跡です。長官が来て詫びてから二人を釈放しました。これが第4番目の奇跡です。このように最悪の情況の中におかれても神様をあがめて祈り、また歌う時、主の臨在と奇跡とが現われます。

バビロンにある教会
 更に、使徒ペテロは、「バビロンにある教会から挨拶を送る」と言って
います。「バビロンにある教会」とは「ローマの教会」を指して言う場合のクリスチャンの暗号だったのです。ローマ帝国の首都ローマは、あたかも紀元前6世紀のバビロンに似ていました。紀元前586年にバビロニヤ軍によってユダ王国は滅びました。王を初め主だった人々はバビロン軍によって捕虜となり、バビロンに強制連行されて行きました。バビロンには無慈悲、乱暴、残酷、偶像礼拝、不道徳、不品行、その他もろもろの罪が満ちていました。しかし、そういう中で、ユダヤ教会は、律法即ちトーラーの中にある神の恵みのうちに生きて、生きぬいたのです。神殿はなくても、会堂(シナゴーグ)とか、個人の家とか、川のほとりに祈り場を定めて神を礼拝するとか、恵みの中に留まって、ついにエルサレムへの帰還を果たしました。
 今、使徒ペテロが滞在しているローマ帝国の首都ローマも昔のバビロンさながらであったのです。ありとあらゆる無慈悲、乱暴、詐欺、人殺し、強盗、偶像礼拝、不道徳、不品行、その他もろもろの罪が満ちていました。だからローマをバビロンと呼んだのです。その中で、ローマのクリスチャンたちはバビロンの泥沼にのみこまれないで、神様の恵みの中に
いだかれて生きぬいていました。それはただ自分を守るためだけでなく、神様の恵みの中にバビロンの人々を招きいれて救出しようとするために働くのです。それがキリスト教会の存在の使命です。 皆さん、現代の私たちもバビロンの中に生きているのです。それゆえにこそ、神の恵みの中にしっかりと立ち続ける必要があります。そして多くの滅びゆく霊魂を教会に招きいれる使命があります。

キリストに在って生きる
 「キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように」(14節)。

 この祝福は非常に大きくすばらしい内容を備えているのです。
 * 最近、わたしはメシャニックジュウの宣教師ロジャー先生の小論文を入手しました。ロジャー先生は、あのアメリカを襲ったイスラム原理主義者たちの同時多発テロ事件が起こってからというもの、多くの人々が
「次にくるものは何か」を思いめぐらしている、それには神様がイスラエルの民に語られた聖書の言葉を注意深く研究するほかないというのです。ここまではその通りだと思います。しかし、そのあとが未来を予言する
ことになっています。ヨーロッパを支配しユダヤ人を迫害したローマカトリック教会に代わって、イスラム諸国連合が世界支配にのりだし、アメリカ、EU,日本などの「世界新秩序」と戦ってこれに勝ち、世界を統一する勢力となってイスラエルを包囲攻撃することになるだろう。しかし、その時、キリストが再臨して敵をことごとく滅ぼし、イスラエルを救われるだろう。ということです。
 果たして、本当にそうなるのでしょうか。聖書の預言、ことにヨハネの
黙示録を現代史にあてはめると色々な解釈が出てくるのです。一応心に留めておくことにして、今、私たちがなすべき最も大切なことは、この不安と変動の世界の中で平安の道を選び取ることです。
 * 昔、ノアの時代も悪い時代でした。〔創世記6:5〜10〕
「主は、人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。〜』しかし、ノアは主の前に恵みを得た」とあります。なぜ恵みを得たかというと、「ノアは神と共にあゆんだ」(9節)
とあります。これですね。「神と共に歩む」とは、神に対して信頼と従順。人に対しては愛と真実をつくすことです。そこにゆるがない「平安」があります。そして、ノアは神様の命令に従って箱舟を造り、その中に入って
救われました。
 皆さん、天地万物の主なる神様は、私たちを救うために天から救い主イエス様を地上に遣して下さいました。このイエス様を信じて、キリストに在って生きるためです。世の中がどんなに変わろうとも、天地がひっくり返ろうとも、キリストに在って生きる人は恵みと平安を得るのであります。主は言われます。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。
  わたしの愛のうちにいなさい」(9節)。

 「いなさい」(メノー)とは「とどまる、住む」という意味です。
イエスさまの愛の中にいつも住んでいれば、
恵みの中に立ち続けることができます。              アーメン

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