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                                         2001年7月1日の礼拝説教
  キリスト者の自由

   Tペテロ2:13〜17
   箴言24:21
   マタイ22:15〜22                皆川尚一牧師
人の立てた制度
  あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。
  主権者としての王であろうと、あるいは、
  悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、
  王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
  善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、
  神の御旨なのである。自由人にふさわしく行動しなさい。
  ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、
  神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、
  兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい(13〜17節)。

 前回、わたしたちはキリスト者がこの世の旅人であることを学びました。もちろん、本来すべての人が旅人なのですが、多くの人々は自分がどこから来て、どこへ行くのかを知りません。しかし、キリスト者は自分が天国から出て、天国へ帰って行くのだということを知っています。では、旅人ですから「旅の恥はかき捨て」で良いのかというとそうではありません。
むしろ、天国への旅人であるがゆえに、この世で責任のある生活を
すべきだということを、今日の聖書は教えています。

  「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、
  主のゆえに従いなさい」(13節)。

 制度(クティシス)とは、国家の組織・制度・秩序といったものを広く包含しています。日本でしたら天皇・皇后・皇族が一番上にいます。天皇制度に反対の人々は、これを認めたくないでしょうが、日本国憲法において
ハッキリと規定されています。象徴としての天皇は、日本国の政治に
直接たずさわりませんが、首相をはじめ大臣・長官を任命したり、表彰したりします。国会に臨席したり、国内の主要行事に臨席して祝福したりします。また、対外的には国賓として諸外国の元首を迎えて挨拶し、もてなします。さらに、日本国を代表して諸外国を訪問し、国際的な会合に出席して祝福の言葉を贈ります。こうした天皇・皇后両陛下の国事行為というのは極めて大切な働きです。無知で下品な民衆が言いふらすように、
天皇や皇室の連中は、ビラビラした良い着物を着て、贅沢をして、我々の税金で遊び暮らしているわけではありません。むしろ、その反対です。  * 本日発行の「日本のためのとりなしニュースレター」に記載されて
いる東京純心女子大の澤田昭夫教授はこう言っています、 「総理の首が毎年替えられても、総理が国際マナーに無知でも、両陛下のおかげで政治の安定と国民的統一が辛うじて保たれ、日本の国際的名誉は維持されている」と。
 わたしがなぜこのように詳しく語るかというと、14節にあるように
「愚かで無知な発言」を封じるためです。
 日本国家の組織制度は一口に言えば立憲君主制です。独裁制でも
なければ、共和制でもありません。そして、この日本国憲法を公布された天皇も、この憲法に従うのです。そして、この天皇を頂点として、首相・
大臣・長官、その他中央省庁や地方官公庁(都道府県、市区町村)の
官公吏、国会議員、地方議会議員などの秩序が立てられています。学校には校長以下教職員の秩序があり、会社には社長以下社員の秩序があります。こうした社会秩序の原点は家庭の秩序です。
 家庭のことや、社会のことは後から出てきますので、
今日は国家のことだけに目をとめましょう。

主のゆえに従え
 「人の立てた制度なんて、何の意味があるのか。どんどん破ってしまえ。規則は破るためにあるんだ」と言いたくなるような場合もあるでしょう。 しかし、聖書は「主のゆえに従いなさい」と教えています。
 「主のゆえに」とは、「主イエス様も人の立てた制度に従ったから」
という意味です。たとえば、
(1) イエス様は税金を納めました。 *ローマ帝国に対して
(マタイ22:22「カイザルのものはカイザルに」)
*エルサレムの神殿に対して(マタイ17:24〜27「魚の口から銀貨」)
(2) ピラトの裁判に従いました。(ヨハネ19:11)ピラトはローマ帝国の元首カイザルが任命したユダヤ総督でしたが、イエス様はピラトの総督としての権威を天地万物の主なる神様から授けられた者と認めておられます。だから従われたのです。 独裁制であろうと、立憲君主制であろうと、共和制であろうと、すべて上に立つ権威は、平和で秩序のある社会を保持するために神様が認めた権威なのです。ですから、万物の主である神の
御子イエス様も人間社会の中にその一員として生まれたからには、その制度のもつ権威を神から授けられたものと認めて従われたわけです。

自由人にふさわしく
 ですから、私たちも主イエス様に見習って、この世を旅し、また、この世に寄留している間は日本国家を愛し、日本国の秩序に従って生活する
必要があります。いわゆる「郷に入っては郷に従え」と言う諺のとおりに、アメリカへ行けばアメリカの秩序に服し、中国へ行けば中国の秩序に
服するということです。
 「それでは、まるで自由がないではないか。どこへ行っても奴隷ではないか」と言いたい人もいるかもしれませんが、そうではないのです。
ここで聖書は教えています。
 「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実と
して用いず、神の僕(奴隷)にふさわしく行動しなさい」(16節)と。
 当時ローマ帝国の中に6千万人の奴隷がいました。奴隷は金で売買され、主人に絶対服従せねばならず、生殺与奪の権を握られており、物品同様に扱われていました。そして、奴隷以外は全部「自由人」と呼ばれていたのです。ところが彼らもまた、本当は自由人ではなかったのです。  * たとえば、「クオ・ヴァディス」という映画に出てくる暴君ネロに対して
側近の高官たちは、絶えずお世辞を言い、ご機嫌をとってやっと自分の地位を保っていました。彼らは精神的、霊的に自由人ではなかったのです。暴君ネロだってそうでした。絶えず自分の地位を脅かすものがいないかと恐れており、自分の文学的才能は確かかと不安でした。権力と
欲望の奴隷でした。 そういう人々の中で、クリスチャンだけが自由人だったのです。そういう世界の中で、従うべきことには自ら進んで従い、神の御旨に反すると思う場合は従わないで殉教の死を選びました。キリスト者は神様に対して、絶対服従すると決意して身体と霊魂を献げた者ですから、強かったのです。

キリスト者の自由
 キリスト者は愛着してやまない家族や自分の命までも主に献げて、
ただ主イエス・キリストを愛して従う決心をしたときから、真の自由人に
なったのです。それは霊的、精神的な自由です。その自由を働かせて、
この世の国家社会の中で積極的に行動するわけです。
ですから、こういわれます。
 「すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」(17節)と。 どんな身分・境遇の人にも人間としの価値がある。神の子としての尊さがある。「腐っても鯛だ」。卑しい罪人も救われて高貴な人に生まれ変わる可能性があります。キリスト者同士の兄弟愛、神を畏れることはわかるでしょう。しかし、「王を尊べ」というこの王とは「ネロ皇帝」という最も恐るべき、下劣なキリスト教徒に対する迫害者を指しています。キリスト者はこのような王をも、王として尊び、ネロが救われるように
祈ったのです。
 皆さん、たとい我々を取り巻く環境がどんなに悪かったとしても、その中で神の子の喜びと誇りと自由とを持って生きていきましょう。   アーメン

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