| 2001年11月11日の礼拝説教 |
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神を知る
Uペテロ1:1〜2 申命記6:4〜5 ヨハネ20:26〜29 皆川尚一牧師 |
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信仰の先輩から イエス・キリストの僕また信徒であるシメオン・ペテロから、 わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、 わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、 恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように(1〜2節)。 第一の手紙の発信者は、「イエス・キリストの使徒ペテロから」と書いていますが、第二の手紙では「イエス・キリストの僕また使徒である シメオン・ペテロから」と多少別の言葉をつけ加えています。 「僕」(ドゥーロス)と「シメオン」の二語です。 これにはやはり大切な意味があると思われます。 「キリストの僕」とは、使徒だけでなく全てのキリスト者にあてはまる 肩書きです。奴隷(ドゥーロス)は主人の所有物であって、主人の命令に絶対服従する者でした。奴隷の生も死も主人の意のままでした。キリスト者もその意味でキリストの奴隷です。奴隷は普通、金で買い取られた者ですが、キリスト者は主イエス・キリストの尊い血の代価を払って買い取られた者です。ここに世間一般の奴隷との違いがあります。一般には、奴隷には自由がなく、みじめな境遇ですから、他の人に向かって胸を 張って、「私は○○の奴隷です。」などと言いたくない立場でしょう。 しかし、キリスト者は違います。私たちキリスト者は誇りと光栄と幸福感にあふれて胸を張って「私はキリストの奴隷です」と言うことができるでしょう。それは言葉を変えて言えば、「私はイエス・キリスト様の所有(もの)です。ほかの誰の所有でもありません。」という愛の告白なのです。 次に「シメオン」ですが、新約聖書の中では「シモン・ペテロ」と記されるのが普通です。「シメオン」がユダヤ名で、「シモン」はギリシャ名です。 なぜここでユダヤ名をわざわざ用いたかというと、イエス様が 「救いはユダヤ人からくる」(ヨハネ4:22)と言われたことをペテロは念頭においていたのだと思います。聖書で一貫して示されて来た神の人類救済計画によれば、救世主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として ユダヤ人の中に誕生することになっていました。そしてメシヤである イエス様はユダヤ人の中に生まれ、ユダヤ人として育ち、ユダヤ人の 救いのために集中的に働かれました。その救いの成果は12使徒でありその代表的人物がシメオン・ペテロでありました。彼は私たちの信仰の大先輩です。しかし、救いはユダヤ人だけにとどまらず、全人類にまで 及ぼされるべきものです。そのためにイエス様は、使徒たちを全世界に向けて派遣されました。エルサレム→ユダヤ→サマリヤ→地の果て (異邦世界)までです。 こう考えて来ると、ペテロが「わたしたちと同じ 尊い信仰を授かった人々へ」と言う受信者の範囲はあらゆる人種に及ぶことがわかりますね。つまり、いかなる人種、いかなる民族、いかなる 国の人々であっても、最初にメシヤ・イエス様を信じたユダヤ人と同じ 信仰、同じ特権にあずかることが出来たのだということです。 それは「全ての人がキリストを信じてユダヤ人になる」という意味ではなく「全ての人が初めのユダヤ人クリスチャンと同じく神の子になる」という ことです。信仰は先輩から後輩へと受け継がれて行くものです。その 意味で、先輩が言う「同じ信仰」の内容をハッキリと知る必要があります。 神にして救い主 それは、「イエス・キリストが神にして救い主である」という信仰です。 この口語訳では下記のように訳されています。 「わたしたちの神と救い主イエス・キリストとの義によって」。 これは新共同訳も同じです。しかし、新改訳ではこう訳しています。 「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって」。 この方が正しい訳です。なぜならばギリシャ語の原文ではただ一人の 人格が示されているだけだから、二人にするのは誤りだと言わねばなりません。つまり、父なる神様は独り子イエス様を通してご自身を啓示されましたから、ヨハネによる福音書には、こう記されています。 * 「神を見た者はまだひとりもいない。 ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、 神をあらわしたのである」(1:18)。 * 「わたしを見た者は、父を見たのである」と イエス様は言われました(14:9)。 * 「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」(20:28)。 従って私たちは「見える神・イエス様」を通して、「見えない神・父」の ふところに参入するのです。これが初代キリスト教会共通の信仰であり、今日の私たちにまで伝達され継承されて来た信仰なのです。 神を知る ですから、こう記されています。〔ペテロ第2の手紙1:2〕 「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、 恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」。 ここでは、三位一体の中の父なる神と子なる我らの主イエス様とが あわせて記されています。いずれにしてもイエス様を知ることによって 神様を知るのです。その方法は、聖書を通して知的に知ると同時に聖霊の力によって神秘的・霊的にイエス様のご愛にいだかれ、いやされ、 いかされることを経験することが神を知る道です。 ところで、私たち日本人は「神を知る」という道について、 これとは違ったとらえ方をして来たのではないでしょうか。 * 例えば、西行法師の歌に、 なにごとのおわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる というのがありますね。何か神々しい存在に触れた感じがすれば、ただ有難い気持ちで涙を流して拝むということです。神秘的な経験を通して 神を知ることは大切ですが、拝む相手がハッキリしないのではとんでも ないものを神とすることにもなります。 * 今一つの例を挙げれば、これは無神論的な考えですが、最近、 ある人から春山茂雄著「未病の医学」という本が贈られて来ました。その中にこんなことが書いてあります。「『嘘も方便』ということわざを、目的を果たすために嘘を使うのは仕方がないことだといった意味合いでとらえている方が多いと思いますが、本来の『方便』という言葉は、『ひらめき』という意味合いを含んでいます。方便とは突然体の中に眠っていた記憶が呼び覚まされ、ある方角より何か偉大な存在から『こうしなさい』とか 『ああしなさい』といった声がきこえてきて、自然と自分の生き方が見えてくる状態のことです。その記憶とは、私は遺伝子に記された記憶だと思います。人間、いや生命体が誕生して以来、脈々と受け継がれて来た 大いなる遺伝子情報が私たちの生き方を示してくれるのです。 なんと壮大でロマンチックな話ではありませんか」。 つまり、春山博士は何としても「神様」の存在を認めたくないわけです。「神はいない」と思う人には神様はわかりません。又、神とは宇宙に充満するエネルギーの総体であって、知・情・意をもつ人格的な神ではないと考える人にも神様はわかりません。ただ、真剣に、素直に神を知ることを求める人は、必ずついには聖書に啓示されたイエス・キリストの神に 出会うでしょう。イエス・キリストを知ることを切に求めましょう。 アーメン |
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