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                                        2002年2月24日の礼拝説教
  神に会う備え

   Uペテロ3:14〜18
   ホセア12:2〜6
   マタイ25:1〜13                 皆川尚一牧師
神に会う備え
  愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、
  しみもなくきずもなく、安らかな心で、
  神のみまえに出られるように励みなさい。
  また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。
  このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、
  彼に与えられた知恵によって、
  あなたがたに書きおくったとおりである。
  彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
  その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、
  無学で心の定まらない者たちは、
  ほかの聖書についてもしているように、
  無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。愛する者たちよ。
  それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、
  非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を
  失うことのないように心がけなさい。
  そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とに
  おいて、ますます豊かになりなさい。
  栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、
  アーメン (14〜18節)。

 「この日」とは、主イエス・キリスト様が再び来臨される日であります。
それは神様にお会いする日です。わたしたちは、この世の終わりの再臨の日に神に会うか、あるいは自分の死の日において神に会うか、どちらかです。どちらにもせよ、神に会う備えをしている必要があります。
そのためには、ここで三つのことが勧められているのです。
(1) しみもきずもなく、安らかな心を保て
(2) 信仰の確信を失うな
(3) イエス・キリストの恵みと知識を豊かにせよ

しみもきずもなく
 「しみもきずもない」とは神様に献げる清い動物の条件です。動物の
場合は外側の肉体を調べた祭司によって、しみもきずもない、立派な、申し分のない動物であると認定されたものが神の祭壇に献げられます。しかし、人間の場合は、霊魂の姿であり、心であります。しみもきずもない美しい霊魂、平和な心を養い育てて神様に献げる必要があります。
神様と調和する心、と同時に人との平和も出来るかぎり保つ心です。  * 先程朗読したホセア書には、ヤコブの実例がありました。
「ヤコブは胎にいたとき、その兄弟のかかとを捕え、成人したとき神と
争った。彼は天の使と争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた。
彼はベテルで神と出会い、その所で神は彼と語られた。主は万軍の神、その名は主である。それゆえ、あなたはあなたの神に帰り、いつくしみと正しきとを守り、つねにあなたの神を待ち望め」(ホセア12:3〜6)。
 ヤコブは争い好きの人で、母の胎内にいた時から、双子の兄と争って生まれて来る時には兄のかかとをつかんで出て来ました。そして兄を
出し抜き、父をだまして相続権と祝福とを父からもらいましたが、兄に憎まれて家を飛び出し、ハランの親戚の家で妻をめとり、子を成し、財産を作ってカナンに帰って来ました。しかし、兄と和解する確信がなく、ヤボク川のほとりで一晩中祈っていたとき、天使が現われてヤコブに組みついて来たので、激しい相撲の結果、天使が負けそうになり、ヤコブのももの関節を外して天使が勝ちました。しかし、これは反則勝ちでしたから、
本当はヤコブが勝ったのです。倒れたヤコブは天使にしがみついて、
泣きながら言いました、「わたしを祝福してくれなければあなたを離しません」と。この相撲は神様とヤコブのエゴとの闘争であったと解釈されています。どんなにエゴの強い人でも神様にはかないません。エゴが砕かれ泣いて神の祝福を求めることによって、神様との和解が成立します。
それによって敵対する人との和解も生まれます。ヤコブは神の祝福を
受けてから、兄エサウと出会いますが、兄の方から和解の手を差しのべてくれました。こうして、ついにベテルという所で神様が出現し、ヤコブと契約を結ばれたのです。私たちの心にも、競争心、憎しみ、うらみ、
ねたみ、冷淡、所有欲、権力欲、名誉欲など色々なしみやきずがあるでしょう。こうしたものを救主イエス様によって清められ、とりのぞかれる
ように切に祈り求めましょう。清い安らかな心を保ち、いつくしみと正しきとを守ることに努めましょう。これが神に会う備えの第一です。

信仰の確信
 第二は、信仰の確信を失うなということです。信仰の確信が失われそうになる原因は、祈りが聴かれないために神様の愛を疑うとか、色々ありますが、ここに書いてあるように、聖書の解釈を誤ることが大きな原因となります。キリストの再臨が遅いのは、神の約束が誤っていたためではなく、神様が愛の忍耐をもって全ての人の悔い改めを辛抱強く待って
いて下さるためでありました。
こうした解釈はパウロの手紙に出ていることです。
「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、
その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」(ローマ2:4)。
(1) 恵みの教理:「罪の増す所に恵みも増す」(ローマ5:20)は、
<では、恵みが増すように、もっと沢山罪を犯そう>というように
曲解されたこともあります。
(2) 自由の教理:「キリストによって自由を与えられた」(ガラテヤ5:1)は<だから、わたしたちは何をしても罪にはならないのだ>と曲解されて、放縦の口実となったことがあります。
(3) 信仰の教理:「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3:28)は、<クリスチャンには信仰が重要
なので、行いはどうでもよい>といった解釈を生じました。そこでヤコブは「行いのない信仰は死んだものだ」(ヤコブ2:26)と教えたのです。
 また、正統的な信仰というのはバランスのとれたものです。
例えば、
(1) イエスは神であり、人である。
(2) 神は聖であり、愛である。
(3) 神の教えは恵みであり、律法である。
(4) キリスト者はこの世界に生き、また永遠の世界に生きている。
これらは重要な信仰の真理ですが、どちらか一方を強調しすぎると
バランスを崩して信仰を失う結果になります。だから、わたしたちは
信仰のバランスを保って確信を保つように心がけましょう。

キリストの恵みと知識
 「そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とに
おいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に
至るまでも、主にあるように、アーメン」(18節)。

 神に会う備えの第三は、イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、
ますます豊かになるということです。 イエス・キリストの恵みと知識というのは机の上の学問ではなくて、イエス様との人格的な交わりを通して
与えられてくる恵みと知識を言うのです。  毎日、聖書を読み、祈りに
よってイエス様と交わり、恵みの奇跡を経験することが大切です。聖書のみことばは一度読めばわかるものではありません。日々読むうちに霊的に養われ、成長するにつれて、気付かなかった聖句に気付き、隠れて
いた真理を悟るようになります。聖霊が教えて下さるからです。
<マタイ25:1〜13>には、キリストの再臨を待つ10人の乙女が出て来ますが、賢い5人の乙女は灯火のほかに油を用意していました。
愚かな5人の乙女は油を用意していませんでした。「灯火」とは「信仰」であり、「油」とは「聖霊」であります。わたしたちは絶え間なく聖霊を注がれて、信仰の火を燃やし続けるのです。聖霊は天に挙げられた主イエス様に祈り求めれば、惜しみなく与えられる恵みです。どうか日々聖霊で
満たされて、キリストの恵みと知識を増し加えましょう。      アーメン

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