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                                          2005/01/09の礼拝説教
  生かす針、殺す針

   箴言1:1〜6
   ヘブル12:7〜11
   ヨハネ8:1〜11                  皆川尚一牧師
ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、賢い行いと、
正義と公正と公平の教訓をうけさせ、
思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る
(箴言1:1〜6)。

針のような言葉
 今日から「箴言」の講解説教を始めます。そこで初めに「箴言」という
表題の意味をとり上げましょう。ヘブライ語の原典では「マーシャール」という表題がついていますが、これには「箴」または「針」という意味はありません。「マーシャール」とは「類似」あるいは「比較」という意味です。
それは一つの事実を他の類似の事実と比較することによって、その意味を深く悟らせる言葉を言うのです。

* 例えば【箴言21章1節】
 「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ。
 主はみこころのままにこれを導かれる」
これは「ソロモン王の心」を「水の流れ」と比較することで、主のみこころに従順に従うことを示しています。

では、なぜ日本語の聖書では「比較」としないで、「箴言」と訳したのでしょうか。それは明治時代の初期に漢文の聖書が日本に渡来して、広く読まれた影響によるのです。

* よく知られているエピソードによれば、長崎奉行の村田若狭守(わかさのかみ)の家臣が長崎港内に浮いていた英文の聖書を持ち帰って奉行に見せましたが、読めなかったので、漢文の聖書を上海から取り寄せて学び、弟の綾部恭と共に横浜の宣教師フルベッキの自宅でバプテスマを受けました。当時は、未だキリシタン禁制の時代だったので、いのちがけの入信でした。

  この漢文の聖書では「箴言」と訳されています。それは漢方医が用いる鍼(はり)のように「人を生かす針」のような言葉であるという意味です。ちなみに、今は「かねへん」を使っていますが、昔の支那の「はり」は竹を用いたので「たけかんむり」の「箴」を聖書では用います。

  世の中には人を生かす針もあれば、人を傷つけたり殺したりする針もあります。そのように、神のみことばは「ちくり」と痛く感じる所がありますが、愛情のこもった人を生かす針なのです。この箴言は短い名句が組み合わさっていて、意味を強調する仕組みになっており、儒教を学んだ人は、聖書の中の「論語」とも言うべきものだと評価しますが、実は、「論語」よりもはるかに霊的な香り高い真理を内蔵するものです。論語は人と人の関係を示し、箴言は、その上に神との関係を示します。箴言の内容は、大部分が「ダビデの子、イスラエルの王ソロモン」の言葉ですが、
他に「アグル」や「レムエル」という賢者たちの言葉も収録されています。

箴言の目的
箴言の目的をひとくちに言えば「生きるための知恵」です。知恵(ホクマ)の内容は豊かで、ここには「教訓」「悟り」「賢い行い」「正義」「公正」
「公平」と色々な言葉で表現されています。これらを学ぶことによって、
思慮のない者、未熟な者は賢くなり、すでに賢い者や洞察力のある者も更に進歩・向上するのに役立つでしょうと言われています。

主イエスの御言葉
 そこで今日はその実例として、新約聖書の方から、主イエス様の
御言葉を取り上げたいと思います。 さきほど歌った讃美歌501番の
2番には、こう歌われています。

  「主イエスの御言葉 いとしたわし、
  あまねくひびきて 世のちまたに
  なやむ子らを あめにまねく
  (おりかえし)
  生命のみことば たえなるかな
  いのちの御言葉 くすしきかな。」

とありますように、慕わしい主のみことばが ≪ヨハネ8:1〜11≫に記されています。 イエス様が朝早く神の宮で人々を教えておら れますと、律法学者やパリサイ人たちが姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、イエス様をかこむ人々の輪の中に立たせました。聖書の別の写本では、「祭司たちは訴える口実を得るためにイエスを試みて言った」と書いてありますので、この場に祭司たちを加える必要があると思われます。というのは、祭司階級のサドカイ派がパリサイ派よりも原理主義的で、刑罰に関しては情状酌量の余地なく、規則通り厳格にせよと主張していたからです。

  それはさておき、彼らは言いました、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と。これは[申命記22:23]に記されていることです。それによれば、この女性はすでに婚約者がいた処女で
あることがわかります。しかし、町の中で襲われたのに助けを求めて
叫ばなかったから処罰されるとあり、男も女もふたり共に石で打ち殺されると規定してあります。この場合男は逃げてしまったので、女性だけが
捕まえられたことになります。それにしてもこういう質問自体が卑猥で
恥知らずな心情を白日の下にさらしているのを自覚していないのにあきれますが、それ以上に卑しいのは、イエス様を訴える口実を得るためにこの女性を利用したことだと思います。イエス様が「赦してやれ」と言えば律法違反でイエス様を告訴できるし、反対に、イエス様が「石で打ち殺せ」と言えば、ローマ帝国の管理下にあるユダヤ人には死刑の判決も処刑も認められていませんでしたから、ローマへの叛逆罪で告訴することが出来たのです。
しかし、イエス様の御言葉は彼らの意表を突いたものでした。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

これこそ正に「箴言」そのものではありませんか。

 これを聞いた人々は、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついにイエス様とその女性だけが残っていました。どの人もどの人も自分の罪を思い知らされたからです。人は年をとればとるほど自分の罪の重さを心に感じているという証拠ですね。若い者とて例外ではありません。
自分の心の醜さ卑しさを棚に上げて、他人の罪を責めることの矛盾を、イエス様の御言葉は鋭く突かれました。ただ神様に罪の赦しを乞い求めるほかに人の生きる道がないことを教えられます。

このようなイエス様の態度は、社会道徳を低下させる恐れがあるという後世の教会の考え方に基づいて、この物語は7章53節から8章11節まで新約聖書から除外されていたらしいです。幸いにして日本語の口語訳聖書では、[ ]付きでこれをヨハネによる福音書の中に収録していることは貴重なことだと思われます。

イエス様は、この女性の罪を罪として認めながら、「これを罰しない」と
言われました。それは公衆の面前ではずかしめられて充分に罰を受けていることを認め、今後のことを戒められたのです。

* 八木重吉の詩に、こういうのがあります。
  すくわれているのだから
  ただ有難いとおもえばいいのだ
  恩返しのつもりで
  他の人々を
  すこしも憎まなければいいのだ                  アーメン

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