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                                            2007/12/16の礼拝説教
  人から神への道

   箴言19:20〜23
   Tコリント3:21〜23
   ルカ11:9〜13                 皆川尚一牧師
宗教心の尊さ
  「勧めを聞き、教訓をうけよ、
  そうすれば、ついには知恵ある者となる。
  人の心には多くの計画がある、
  しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。
  人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、
  貧しい人は偽りをいう人にまさる。
  主を恐れることは人を命に至らせ、
  常に飽き足りて、災にあうことはない」
  (箴言19:20〜23) 。


  今日の説教の主題は「人から神への道」です。人間は遠い、遠い、
昔から「宗教心」というものを持って来ました。宗教心とは一体何でしょうか。その答のひとつに、有名な昔の短歌があります。
   分け登る麓の道は多けれど
       同じ高嶺の月を見るかな
その意味は、「夜空にうるわしく照り輝く月の光を求めて、人々は色々な違った道から山に登って行くが、どんな道から登って行っても、結局は同じ月を見ることになるのだ」ということでしょう。一口に言えば「色々な違った宗教があっても結局は同じ神様を目指しているのだ」というのです。
  これは人間の持つ宗教心の尊さを説くもので、ある種の説得力を持っています。つまり、この宗教は正しい、あの宗教はだめ、とお互いに他人の信じている宗教を否定しないで、それぞれの宗教心を尊重することが大切だということです。  
  但し、この考え方の欠点は、人間の宗教心を大切にして、肝心の「何を信ずるか」、つまり信仰の対象が軽んじられていることです。そのために、「鰯の頭も信心から」という諺が生まれました。これは節分に鰯の頭をくしに刺して、柊(ひいらぎ)の枝と共に門口に掲げて鬼を払う式をすることから、「信ずる心があれば鰯の頭も有り難く思える」という意味です。でも、信じている相手が鰯の頭ではお話になりませんね。一体なぜ人間には真の神様が見えなくなってしまったのでしょうか?

人間は放浪者
  聖書の説明によれば、それは人間が罪を犯して神様の御前から追放されたからです。人類の始祖アダムとエバは、初めは「エデンの園」という素晴らしい楽園で神様と親しく会話しながら幸福に暮らしていました。
それが、神の家でした。しかし、ある日悪魔に惑わされ、「神のように賢くなる」知恵を求めて禁断の木の実を食べ、悔い改めなかったのでエデンの楽園から追放されました。それ以来、彼らは地上の放浪者となりましたが、神を求める心、つまり宗教心だけは失っていませんでした。そこで祭壇を築き、その上に供え物を献げて感謝のお祈りをするという信仰生活をしました。それが「人から神への道」でした。彼らの子孫である人類は、神様の御心に従順な人と不従順な人とに分かれて来ました。
  例えば、アダムの長男カインは神様に従順な弟アベルを妬んで深く憎みました。神様から「妬み心を捨てないと悪魔にとりつかれて、もっとひどい罪を犯すことになるから、早く妬み心を捨てなさい」と戒められたのに、反って神様に反発して従わなかったので、ついに弟殺しを実行してしまいました。そして、これまで農業を営んでいた土地から追放され、地上の放浪者となりました。しかし、カインとその子孫は放浪生活から抜け出して、土地を獲得し、永久建築の家を建て、様々な武器を作り、人々を征服して奴隷とし、都市国家を造り、権力者、独裁者になる道を歩みました。
しかし、彼らは依然として霊魂の放浪者でありました。そして、アダムから十代目のノアという信仰者の時代には、カインの子孫は地上を不信仰、不道徳、そして暴虐で満たしました。そこで、神の裁きが下り、大洪水が起こってノアとその家族8人だけが救われて、その他の人々は全部水に飲み込まれて滅びたのでした。
  しかし、それで問題が解決したわけではなく、ノアの子孫にも罪の遺伝子が受け継がれていて、神様に対する不従順の心があるために、今日まで人間は地上の放浪者としてさまようことになりました。その結果、現代世界の人類はカインのような不信仰、不道徳、戦争、環境破壊等によって地球上に罪をはびこらせ、人類の破滅を招いているのです。そこで、わたしたちが霊魂の放浪生活から真に抜け出るためには、本当の神様を知ること、信じること、そして、神様の御心に従うことが必要です。

神に出会う道
  ユダヤ人の有名な哲学者アブラハム・ヘシェルは、神に出会うのに
三つの小道があると言っています。それは、
(1) 神の臨在を、この世の中で、物ごとの中で感じとる道
(2) 神の臨在を、聖書の中で感じとる道
(3) 神の臨在を、神に従う行動の中で感じとる道 この三つです。
一つずつわたしが解説して見ましょう。

(1) 神の臨在を、この世の中で、物ごとの中で感じとる道  
  例えば、アブラハムは満天の星を見上げたとき、「あなたの子孫はあのように多くなるであろう」と言う神の声を聞きました。彼は神を信じました。  
  また、彼の孫ヤコブは野宿の夜、夢の中に現われた神様から「お前を守る」という約束を聞きました。ヤコブは驚いて目を覚まして言いました。「ここは『神の家』(ベテル)だ」と。彼らは「ヘブライ人(流れ者、放浪者)」だったのですが、神様の臨在を感じるところが神の家だと悟ったのです。
  世の中には、占い者や霊能者が不思議なお告げをしたり、霊現象を起こしたりすることがありますが、天地万物の創造主の現れに比べたら全く低次元の現象であり、悪霊の憑依を受ける原因になりますから、彼らに聞こうとしない方が賢明です。  
  今、「このクリスマスをなぜお祝いするのか」と言えば、宇宙よりも偉大な天の神様が人間イエスとなってこの世に臨在されたからです。人は皆イエス様を見ること、信じることによって、神様を感じとることが出来ます。 イエス様は「わたしを見た者は天父(ちち)を見たのだよ」と言われました。 人は皆、イエス様を信じて神の霊で満たされ、この世にいながら神の家にいる確信と安らぎとを持てるし、死後には天の家に帰る事が出来ます。  

(2) 神の臨在を、聖書の中で感じとる道  
  例えば、37年前わたしが交通事故で右足の骨が折れて入院した時、当時11歳であった次男の望(のぞむ)が学校から帰宅して、わたしの
事故の話を聞くと、勉強机の上に聖書をパッと開いて、ノートの切れ端に聖句を書き、母親に、「これをお父さんに持って行って」と頼みました。
  「彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
   また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
   ただあなたの右の手、あなたの腕、
   あなたのみ顔の光によるのでした。
   あなたが彼らを恵まれたからです」(詩篇44:3)。

  この聖句です。これを病院で家内と一緒に見た時、わたしたちは「神様が望に臨在して、この聖句を書かせられたのだね」と語り合いました。そしてその夜、イエス様がわたしのベッドのそばに現われて「み顔の光」を照らして下さいました。わたしはみ顔の光とみ手の力によって早く癒されました。

(3) 神の臨在を、神に従う行動の中で感じとる道  
  福音書によれば、受胎告知を受けた処女マリアは、神の聖霊がイエス様を自分の胎内に宿すことを信じて、受け入れました。それによってマリアは人類史上いかなる女性も経験したことのない特別な神の臨在の恵みを感じとったのです。また、このマリアの婚約者ヨセフも神のお告げを信じて、マリアを受け入れました。神に従う行動の中で、ヨセフとマリアはベツレヘムの洞穴の中での出産、羊飼いたち、東方の博士たちの来訪、天使のお告げによるエジプトへの避難の旅等を通して神のご臨在を感じとりました。初めのクリスマスは、神の実在の経験と証しの物語です。
そして、皆さん、わたしたちにとってもそうです。イエス・キリストを信じて、神に従う行動の中で、神の臨在はたびたび感じられるのです。

主の御旨だけが堅く立つ
  では最後に、初めの箴言の御言葉に目を留めて下さい。
「人の心には多くの計画がある、  
しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)。
 
  わたしたちは自分の人生について、自分の好きなように計画しようと、あるいは行き当たりばったりで無計画に生きようと、それは自由です。
わたしたちは元来、地上の放浪者なのですから。しかし、自分の播いた種は必ず刈り取ることになります。無神論者や占い者が何を言おうと、
色々な宗教がどう教えようと、キリスト教各派がどう主張しようと、わたしたちの人生を彼らの手に任せたり、自分の失敗を人のせいにしたりすることは出来ません。わたしたちにとって大切なことは、「ただ主のみ旨だけが堅く立つ」ということです。主イエス様に聞き従って行く道だけが唯一の人から神への道であります。どうか、このクリスマスに善い選択、善い決断をもって、救い主イエス様について行こうではありませんか。
                                      アーメン

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