| 2008/4/6の礼拝説教 |
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奴隷となるな 箴言22:7 ガラテヤ5:1 ヨハネ8:31〜36 皆川尚一牧師 |
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権力の構造 「富める者は貧しき者を治め、 借りる者は貸す人の奴隷となる」 (箴言22:7) 。 ここでは権力の構造が語られています。金持が貧乏人を支配するのです。金持が上で、貧乏人が下という、上下関係が権力の構造です。 2行目の意味も同じです。金を貸す人は、金持であり、借りる人は貧乏人であります。金を借りたら返さなくてはなりません。もし返せない場合には、妻や子供を売って返せと迫られたり、自分自身を奴隷に売って返せと迫られたりします。 イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、その著「権力論」 第8章 「経済権力」の中で、経済的権力は武力、特に国家的権力と結びついている」と述べています。例えば、アメリカの石油会社は法律的にその権利と富とを守られています。元々インディアンに所属していた土地なのに、アメリカが武力でインディアンを征服した結果、法律上の権利はインディアンに与えられず、白人とその経営する石油会社に与えられました。 アハブ王とナボテ 旧約聖書《列王上第21章》によれば、北イスラエル王国のアハブ王は自分の宮殿の隣にあるナボテという農民のぶどう畑を自分のものにしたくなり、「代替地を与えるから、お前の畑を譲ってくれ」と申し込みました。しかし、ナボテは「ご先祖様から受け継いだぶとう畑だから絶対手放しません」と言って、拒否しました。すると、王はがっかりしてふさぎ込みました。それを見た王妃イゼベルは、ならず者二人を証人として立てて、「ナボテは神と王とを呪った」と法廷に訴えさせました。これは偽証でしたが、裁判ではナボテが負けて、石打ちの刑によって処刑されました。 このように、「富める者は貧しき者を支配する」わけです。 しかし、この話は、これで終わりではなかったのです。王アハブよりも、もっと権威・権力のある神様が預言者エリヤを通して「アハブとイゼベルの死」を宣告されました。公平な裁判官である神様が不正な裁判を正してくださいます。 イエス様の譬え話 貸し借りの話では、新約聖書《マタイ18:23〜35》を見て下さい。 ある人が王様から1万タラント(一兆円)の借金をしていましたが、決算の時が来て、借金を返すように命じられたけれども返せませんでした。王はその家来に、「自分自身と妻子と全財産とを売って返せ」と命じましたが、到底1万タラントには及びませんでした。この意味は、その家来も妻子も奴隷になるということです。それでも、「お返ししますから、どうかお待ち下さい」と家来が懇願するので、王は憐れに思って借金を棒引きにしてやったというのです。ところがこんなに素晴らしい恩恵を受けたのに、この家来は、自分から100デナリ(100万円)の借金をしていた仲間を許さないで牢獄にぶち込んだのでした。それを聞いた王様は1万タラントを借りた家来の赦免を取り消して、負債全部を返すまで牢獄にぶち込んだという話です。 ところで、イエス様の譬え話の中心は「神様の憐れみ」です。莫大な借金に等しい人間の罪を、人は償いきれません。それを知って神様はただで赦して下さいます。だから、人間はお互いの罪を何度でも、無条件で赦し合ってほしいと神様はお望みなのです。つまり「無条件の愛」こそが自由のしるしであります。 罪の奴隷からの解放 次に、《ヨハネ8:31〜37》を見て下さい。 「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう』。そこで、彼らはイエスに言った、『わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか』。イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく、すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいるものではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである』」。 つまり「イエス様を信じているとか、アブラハムの子孫だとか言っても、心の深いところまで神様の御言葉が根をおろしていない人は罪の奴隷なのだ」と主は言われるのです。罪とは神様に背くことです。神様を信じていると言いながら、イエス様のお言葉に反発して、イエス様に殺意を抱くとは、何と言う矛盾でしょうか。罪(悪魔)の囚われから解放されていない証拠です。つまり、「無条件の帰依」こそがイエス様を信ずるしるしであります。 奴隷となるな 次に、《ガラテヤ5:1》を見て下さい。 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。 ここで言う「奴隷のくびき」とは何でしょうか。 それは、「不信仰」、「律法主義」、「お金」、「肉欲」、「悪魔・悪霊」等であります。 また、「個人や国家の権力の奴隷になるな」と言う意味もあるでしょう。 奴隷根性を持つな また、「奴隷根性を持つな」という意味もあると思います。 (1) 丸腰平和論の愚 社民党は平和憲法を守るために、「完全に武装を放棄すべし。もし、外敵が入って来たら、戦わずに降伏すべし」という丸腰平和論を唱えているようです。また、日本のキリスト者にはそういう考え方の人たちが少なくないようです。「奴隷になればなったで良いではないか」と言うのです。これは個人個人の信仰に基づいて、自発的に奴隷になるというのでしたら、それはその人の自由ですから勝手にしたら良いと思います。 しかし、国民全体が生きた信仰によって奴隷になるなどということはあり得ません。むざむざ黙って奴隷になるよりは、戦って死ぬ方が遥かに優っているというプライド(自尊心)を失ったら、人間としての尊厳を保つことが出来ないと思います。つまり、「奴隷根性を持つな」と言うことです。 硫黄島からの手紙では、「戦って死ぬことによって、敵の日本進攻を少しでも遅らせることが出来たら満足である」と信じて、司令官初め兵士たちまで、祖国に殉じる気高い志をもって死にました。彼らは奴隷根性で助かることを捨てたのです。これが真の自由ではありませんか。 (2) ベン・ハーの自由 ベン・ハーはユダヤ王家の血筋の人で、ふとした事故がきっかけとなり、ローマ海軍の戦艦の船底に奴隷として繋がれ、船を漕ぐための過酷な労働を強いられました。しかし彼は奴隷根性の持ち主ではなく、王のプライドを胸に秘めていました。それが、司令官の目にとまったのです。司令官は彼を呼び出して面接し、ローマで格闘士にならないかと勧めました。ところが間もなくギリシャ海軍と遭遇して激しい海戦となりました。司令官が船底のベン・ハーの足の鎖を解いてやり、そのお蔭でベン・ハーは助かり、海に投げ出された司令官をも助けました。こうして、彼は勝利の凱旋の後に、司令官アリウスの養子に迎えられ、ローマ皇帝から自由と栄誉とを与えられたのです。神様の摂理というものがあるということを教えられる映画であります。 キリストの奴隷となれ 使徒パウロは、「キリスト・イエスの奴隷、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と名乗りました(ローマ1:1)。これは実に感謝と誇りに満ちた自己紹介です。罪と死と悪魔の奴隷からキリストによって解放されて、キリストの奴隷となったのが最高の自由であるからです。「わたしはキリストの奴隷でさえもない」と思う人は、真の自由人ではなく、依然として悪魔の奴隷なのです。知らず知らずのうちに悪魔にマインドコントロールされているのに気がつかないだけです。どうか、全身全霊を献げ、喜んで主イエス様に仕えて行こうではありませんか。アーメン 次回予告 08.4.20 真の教養人(箴言22:10〜12) |
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