| 2005/06/05の礼拝説教 |
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善を行う力
箴言3:27〜28 ローマ12:6〜17 マタイ6:1〜4 皆川尚一牧師 |
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あなたの手に善をなす力があるならば、 これをなすべき人になすことを さしひかえてはならない。 あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、 「去って、また来なさい。 あす、それをあげよう」と言ってはならない (箴言3:27〜28)。 善を行う力 今日の箴言のみことばは大切なことを教えていると思います。 しかし、これを実行するにあたっては、幾つかの問題点を心にとめる 必要があるでしょう。 * 例えば、わたしは小学六年生のとき、作家の山本有三の書いたものを読みました。それは自分の経験を記したものです。彼が子供のころ、道を歩いていると先のほうに重い荷物を持ったおばあさんが歩いていました。「おもそうだなあ。直ぐ走っていって、持って上げましょうと言いたいなあ」と心の中で思っているけれど、勇気がなくて走り出すことができなかった。すると自分のうしろから来た女学生が、自分を追い越して走っていって「おばあさん、その荷物重いでしょう、わたしが持ってあげましょう」と言い、荷物を持っておばあさんと一緒に歩いて行きました。有三は自分に勇気がなかったことを深く恥じて、「これからは、きっと勇気を出して実行するぞ」と決心したというのです。 これを読んだわたしも、引っ込み思案のくせのある自分を恥じて、同じ決心をしました。電車やバスの中で年配者や、赤ちゃんを抱いた女性に席をゆずるとか、いろいろありました。ところが、そう簡単に行かない 場合もあるのです。 牧師になってから経験したことですが、教会にはお金をせびりに来る 人々が沢山来ます。初めは相手の語る言葉を信じて、気の毒に思ってなけなしの財布からお金を貸したり、あげたりしました。イエスさまが、 「何もあてにしないで貸してやれ」(ルカ6:35)と言われるのだから、相手のプライドも考えて「貸してあげます」と、何も当てにしないで貸しました。しかし、一度だれかに貸すと、別の人がせびりに来ます。やがて、自分がだまされていたらしいということに気づくのです。 「だますより、だまされろ」という諺もありますから、だまされた方が ましには違いないのですが、だまされるのは後味が悪いものです。 しかし、「もし相手の言ったことが本当だったら」と思うと、断った後味の悪さもあります。そこで、「相手のいうことが真実かどうかを判断しようとするのをやめて、一律に五百円だけあげることにしている」という或る 牧師のやり方を取り入れて、五百円だけにしたこともあります。このごろは、「教会という所は、神様に感謝のお金をささげる所です。お金をもらいに来る所ではありません」と言って断ることにしました。 しかし、これもケース・バイ・ケースなのです。 善を行う相手 ここで気をつけるべきことは、箴言に「これをなすべき人になすことを、さし控えてはならない」(27節)といっていることです。「わたしが今この場合に、善を行うべき相手はだれか、また、その方法は何か」これを適切に判断して実行する必要があります。 ところで、西暦紀元第1世紀の末ころに書かれた「12使徒の教訓」と いう本の中には、こう記されています。 「なんじの分け与える人がなにびとであるかがわかるまでは、 分け与えずに、なんじの手の中に固く握りしめておれ」と。 つまり、人が「困っているから助けて下さい」と言っても、自分が助けてあげるべきかどうか、また、その方法は何かを良く確かめるべきで、 相手に振り回されてはならないというのです。 昔、山中鹿之助は「われに七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈りました。それは、ただ苦しみを願ったのではなく、苦難の中で鍛えられて、 もっと強くなることと、苦難を乗り越える不思議な力を得ることを願った のです。 どの人も宇宙万物の造り主である神様によってこの世に来たときから、神の愛によって見守られ、導かれているのです。人にはこの世に来たときから、困難を乗り越える力が与えられています。また、困難を乗り越える力は神様から来ます。知恵も神様から来ます。心の中から湧き上がる知恵や力があって、それに動かされてこの人生を生きて行くのが、それぞれの人に与えられた使命なのです。ですから、誰かが困っているとき、私たちはその人が解決する力を奪うことなく、何かの支えになることを 考えたら良いのではないでしょうか。 神様の報い 次に、善を行う動機も大切なことをイエスさまは教えておられます。 「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いをうけることがないであろう。 だから施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを得てしまっている。あなたは施しをする場合右の手のしている事を左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう」(マタイ6:1〜4)。 つまり、人から良く思われたくて善を行うことを戒められたのです。 こうした場合は、自分の家族のための責任は果たさないで、見過ごしにすることがよくあります。自分の家族が「おいしいものを食べたい」とねがっているのを無視して、よその人に気前よくご馳走をふるまって、 「あの人は良い人だ」と言われることで満足するのです。 この他にも善を行う場合、人によって色々なやり方の違いがあります。 * 例えば、月曜日の朝9時に会社で会議があって、自分がある重要な報告をすることになっているとします。あなたは、それに間に合うように、10分前に会社の前の横断歩道に立っています。信号が青になって 渡ろうとした時、信号無視の車が走って来て人を撥ね、そのまま走り 去ったとします。 この場合、あなたはどう行動するでしょうか。 * ある人は撥ねられた人のそばに駆け寄って助けようとするでしょう。 * ある人は急いで110番、と119番に電話するでしょう。 * ある人は走り去った車のナンバーや、色や、 型式を確かめようとするでしょう。 * しかし、あなたは会社での会議に間に合うように駆けつけるほうを 選ぶかも知れません。それは、被害者だけに目がいっている人から 見ると、非人間的だ、不人情だと非難されるおそれがあります。 クリスチャンだったら、こうするのが正しいと考える人々がいます。 また、キリストならどうされるかを考えれば分かるとか言う人々もいます。 だが、果たしてそういう基準をもうけることが出来るでしょうか? 何が正しい行動であるのかは、神様しかご存知ないのです。それぞれが善を行うために、何者かに突き動かされて行動しています。隠れたところにいて、人の隠れた心を見ておいでになる神様だけが、適切な判断をされるでしょう。わたしたちは、自分の基準にしたがって人を裁かないように気をつけたいと思います。人はスプリンクラーで水を撒くように、善を 振りまくことが出来ません。やりたいことが沢山あっても、出来ることは 限られているのです。その限られた中でどの善事を選んで実行するか。 これが私たちの課題であります。 アーメン |
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