| 2008/8/10の礼拝説教 |
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黄金の戒め 箴言25:11〜12 Tコリント2:6〜13 マタイ13:16〜23 皆川尚一牧師 |
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黄金の戒め 「おりにかなって語る言葉は、 銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ。 知恵をもって戒める者は、これをきく者の耳にとって、 金の耳輪、精金の飾りのようだ」 (箴言25:11〜12) 。 銀の彫り物に金のりんごをはめたアクセサリーは、指輪・耳輪・腕輪とか、ネックレスとか、冠などにあしらわれると気品ある豪華な作品となるでしょう。それは「おりにかなって語る知恵の言葉」に譬えられています。それを聞く当事者を生かす輝いた言葉だからです。そういう言葉を語れる人は幸いですね。今いくつかの実例を取り上げたいと思います。 ヨセフとその兄たち 先ず、ヨセフが兄弟たちに告げた言葉です。《創世記第45章》を開いてお聞きください。 《ヨセフが17歳のとき、その兄たちはヨセフを妬んで奴隷として売り飛ばしました。エジプトに行ったヨセフは、奴隷や囚人となるなど、13年の苦労の末に、一躍抜擢されてエジプトの副王の地位につき、エジプトを豊かな国に築き上げました。おりしも中東一体は大飢饉のために悩み、諸国の民が食物を求めてエジプトを訪ねて来ました。その中にイスラエル民族の代表として訪ねて来たヨセフの10人の兄たちがおりました。 自分たちが奴隷に売ったヨセフが生きていて、しかもエジプトの権力者となっているのを知ったとき、兄たちはヨセフからひどい仕返しを受けるに違いないと想って、恐れおののきました。そのとき、ヨセフはこう言いました、 「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。 神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。 この2年の間、国中にききんがあったが、なお5年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神はあなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきに遣わされたのです。それゆえわたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく、神です」。 この言葉によって兄たちは救われ、イスラエル民族全体が救われました。これこそおりにかなった黄金の戒めではないでしょうか。 グッドマン博士と近藤秀子 今度は日本の実例を取り上げたいと思います。わたしが神学生の頃、昭和27年の夏期伝道で長野県上田市の上田教会に派遣されました。 その時洗礼を受けた近藤秀子さんは、既に肺結核で療養していましたが、病状が悪化して昭和36年に東京の慶応病院で手術を受けました。胸を開いてみて分かったのは片方の肺を全部摘出しなければならないということでした。医師は彼女に「もし万一、片肺全摘となったならば、廃人同様に細々と息をして生きるほかなくなるでしょう」と予告していました。ですから、手術が終って麻酔から醒めたとき、近藤さんは絶望のとりことなりました。そのときのことを詠んだ彼女の歌に、 望み絶えし我なるものを主に望み 尚祈ります訪ひ来し牧師 とありました。この牧師とはわたしのことです。 神に問ひ神に訴へて夜は白む 地の果てに我はうなだれて佇つ そのようなある日、手術以来はじめて手にした新聞を広げた彼女の目に 大きなゴシックの見出しの文字が飛び込んできました。 失ったものを数えるな、残されたものを生かそう これは日本の身体障害者を励ますために来訪したイギリスのグッドマン医学博士の言葉でした。この時にかなった黄金の戒めによって近藤さんは生き返りました。 果てしなく病みつぐ我にも生くる意義 賜ひしイエスの愛に目醒めつ 東村山のサナトリウムに移って療養に励むようになり、ベッドの上で手紙を書いて友を慰め、やがてベッドから降りてそろそろと一歩ずつ歩いて病友を励ますようになりました。その頃詠んだ歌、 わが未知の世界学ばむ思ひ満ち 入学願書を病床に書く これはラジオ講座への入学願書です。彼女はイエス様の愛と知恵に生かされて未知の世界へと挑戦して行きました。 聞き分ける耳 次に、口語訳箴言25章12節の、 「知恵をもって戒める者は、これを聞く者にとって、 金の耳輪、精金の飾りのようだ」は、 新共同訳やヘブライ語対訳では、 「聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは 金の輪、純金の飾り」となっています。 これはどこが違っているのかと言うと、口語訳では「聞く者にとって」と訳して「知恵ある人の戒めを聞く者」を一般的に扱っていますが、新共同訳では「聞き分ける耳に与えられる」という点が違うのです。つまり一般人ではなく「聞きわける耳のある人」と解釈しているのです。「賢い懲らしめ」というのは良い訳ではなく、「賢い戒め」と訳す方が優っていると思います。 なぜなら箴言には、 「あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る」(9:7〜9)と記されているからです。 イエス様も《マタイ13:9》で、「耳のある者は聞くがよい」と言われましたが、これは「聞き分ける耳」という意味です。そして、主は、聞き分ける耳があるかどうか分からない群衆には譬で語られましたが、弟子には、 「あなたがたの目は見ており、耳はきいているから、さいわいである」(13:16)と言って、譬の意味を解説されました。 では、「聞き分ける耳とは何か」と言えば、「聖霊の導きを素直に受ける心がある」ということではないでしょうか。つまりイエス様の説く神様の御言葉を幼児のように素直に信じる人です。 例えば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)というイエス様の教えは、現実には実行できないと頭から否定する人には、実行できないでしょう。しかし、イエス様の愛を信じる人にはごく自然に実行できるのです。聖霊によって自分を憎む相手をも愛する心が生まれるからです。イエス様の愛の光を受けるに任せることが大事です。これを知るために、ベティー・イーディーの話をします。 ベティー・イーディーの体験 アメリカ・インディアンの女性ベティー・イーディーは、両親が離婚して4歳のときに、カトリックの寄宿学校に入れられました。《40人の女の子と共に大部屋にいれられ、冬の寒さで肺炎を起こしたことがありました。病院に入れられて死んだ時、ベッドのそばに白いひげの輝いた姿の男の人がきて、彼女を抱き上げてやさしく揺すって寝かしつけてくれました。そして彼女は生き返りました。その寄宿学校ではシスターが先にゴムの玉のついた棒でしつけをします。そこでは、インディアンは聖書の神様を知らない罪人だと教えられました。シスターたちは選ばれた神の僕だと教わりました。だから神様は怒りっぽくて怖い人だと思いました。最後の裁きの日には、きっとわたしなんか、あっという間に叩きつぶされて、地獄に突き落とされるはずだ。神様とは絶対顔を合わせたくないと思いました。 その次に収容されたのは、「ブレイナード・インデイアン訓練学校」でした。それは、プロテスタントのウェスレー派の学校でした。ここの先生たちが教えてくれた神様はもっと楽しい神様で、私たちが幸せだと喜んでくれる神様でした。11歳の時に、そこの寮母さんに「あなたは本当に神様がいるって信じているのですか?」と尋ねてみました。すると寮母さんは、いきなりわたしの頬に平手打ちをくれて、「よくそんな口がきけたもんだ、さあ、跪いて許してくださるようにお祈りしなさい」と叱りつけました。それでわたしには信仰が足りないから、きっと地獄行きしか残されていないと思いました。それで死ぬことがとても怖かったのです。 しかし、1931年31歳の時に手術を受けている間に、臨死体験をして天国に行き、イエス様に迎えられて、すばらしい体験をしました。この世の時間ではわずか4時間ほどでしたが、教えられた内容は豊かでした。イエス様の光の中で少女時代の疑問を質問すると、すぐに答えがきました。光が心に入るままに任せると、頭で考えるよりも早く質問が浮かび、その瞬間に答えが与えられるのです》。ベティーの話は、今日はここまでにしますが、皆さん、私たちはこの世で既に聖霊の光を受けて黄金の知恵をいただくことが出来ます。「求めよ、さらば与えられん」です。 アーメン 次回予告 08.8.17 良い指揮者(箴言24:5〜7) |
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