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                                          2005/07/03の礼拝説教
  謙虚な人

   箴言3:34〜35
   ヤコブ1:9〜11
   ルカ6:37〜38                  皆川尚一牧師
彼はあざける者をあざけり、
へりくだる者に恵みを与えられる。
知恵あるものは、誉を得る、
しかし、愚かな者ははずかしめを得る (箴言3:34〜35)。

あざける者
 34節に、「彼はあざける者をあざける」とありますが、「かれ」とは主なる神様のことです。「あざける者」とはヘブライ語で「レーシーム」ですが、これは、「高慢な者」、「高ぶる者」と同じでしょう。自分を何か「偉い者」のように思って、自分と違う考え方や、感じ方をする人を馬鹿にして、あざわらうのです。しかし、上には上があって、最高の天にいます主なる神様が「あざける者」をあざけられるであろうと、聖書は厳粛に告げています。

 18世紀のフランスの唯物論者ヴォルテールは、その実例でしょう。
彼は神を否定し、あらゆる絶対的なものを皮肉り、あざける文章を書きまくりました。そして、自分で印刷所を作って大いに売り出しました。
また、常日頃「今後百年もすれば、神を信仰するような迷信家は、この
地球上にひとりもいなくなるであろう」と語っていました。彼の演説は当時のパリ市民から拍手喝采をあびたので、ますます得意になり、街頭演説に乗り出して、「もしこの世に神というものがいるなら、こんな悪口雑言を
並べ立てる私を、一つこの場で倒してごらんなさい」と啖呵を切りました。その後彼は病気で倒れ、医師に対して、「もし私の寿命を六ヶ月間延ばしてくれたら、私の全財産をあげましょう」と懇願しました。するとその
医師は、「ヴォルテールさん、六ヶ月は愚か、あなたの命はもう六時間も保ちませんよ」と言いました。彼は、「ああ、おれは地獄に落ちていく」
とつぶやいて息を引きとったそうです。その後ヴォルテールの印刷機は聖書を印刷するために盛んに用いられ、その屋敷は聖書の倉庫と
なりました。「愚かな者ははずかしめを得る」とはこのことでしょう。

謙虚な人
 次に、34節後半には、「へりくだる者に恵みを与られる」とあります。

 「へりくだる者」とは、ヘブライ語で「アーナーウ」と言います。へりくだるというのは、「わたしはだめな人間で、何も出来ません」と言って、出来るのに謙遜することではありません。それでわたしは「謙遜」という日本語
よりも、「謙虚」という日本語の方が好きなのです。謙虚とは、心から自分の無力を感じてへりくだることだからです。その実例として、片岡健吉のことを挙げたいと思います。

 片岡健吉は明治時代の政治家で、土佐藩士でした。明治維新の時、欧米視察後、海軍中佐となり西郷隆盛を支持して免職、百日間の禁固刑を受け、さらに板垣退助と共に立志社を設立して国会開設運動を始めました。彼は地租の軽減、言論集会の自由、外交政策の変更を要求
する三大建白書を元老院に提出したことによって、明治20年保安条例違反で石川島の監獄に投獄されました。そして、監獄の中で便所掃除を命じられましたが、プライドの高い人だったので、これが不満でたまらず、適当にごまかしていました。片岡は監房の中で、新約聖書のヨハネ伝を読んでいましたが、ある日第13章のイエス様が弟子たちの足を洗われたところに出会い、目が開かれたのです。「神の御子イエス様さえも
なお弟子の足を洗いたもうたとすれば、わたしの便所掃除くらい何であろう。わたしは今からの生涯を日本国民の汚れた足を洗うために捧げよう」と決心し、バプテスマを受けました。彼は衆議院議長までのぼりましたが、高知教会では長老として教会の玄関でスリッパをそろえる役割を
好んでいたそうです。「艱難なんじを玉にす」ということわざもあるように、わたしたちは苦難を通して謙虚を身につけるのではないでしょうか。

ゆるして下さい、ライの人よ
 神谷美恵子(1914〜79)は東京女子医学専門学校に在学中、かねて念願のライ病(ハンセン病)患者療養所、長島愛生園へ見学実習に行き、診療を手伝いました。それによって謙虚にさせられたことを
「ゆるしてください、ライの人よ」という詩に託しています。

  光うしないたるまなこうつろに
  肢(あし)うしないたるからだになわれて
  診療台の上にどさりとのせられた人よ
  私はあなたの前にこうべをたれる
  あなたはだまっている
  かすかにほほえんでさえいる
  ああ、しかし、その沈黙は ほほえみは
  長い戦いの後にかちとられたものだ
  運命とすれすれに生きているあなたよ
  のがれようとて放さぬその鉄の手に
  朝も昼も夜もつかまえられて
  十年、三十年、と生きてきたあなたよ

  なぜ私たちでなくてあなたが?
  あなたが代わって下さったのだ
  代わって人としてあらゆるものを奪われ
  地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ

  ゆるして下さい ライの人よ
  浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
  そこはかとなく、神だの霊魂だのと
  きこえよいことばをあやつる私たちを

  ことばもなくこうべをたれれば
  あなたはただだまっている
  そしていたましくも歪められた面(おも)に
  かすかなほほえみさえ浮かべている

 神谷さんは、ライ患者とイエス様とを重ねあわせて、患者への医療奉仕を自分の罪に対する一つのあがないのわざと考えたのでしょう。
私たちもまた、贖いの主イエス様を常に思いつつ、 謙虚を学んで
歩みたいと思います。

円熟の道
 さらに今一つ別のタイプの謙虚があるでしょう。
東京女子大学の学長の初代学長であった新渡戸稲造が好んで
学生たちに書いていたという古歌があります。

   うつるとは月も思わず
   うつすとは水も思わず
   広沢の池

 これは円熟した謙虚の人の姿ではないでしょうか。
日本的な霊性の中にイエス様のみこころに通じる道があることを大切にして行きたいと思います。                       アーメン

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