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                                            2009/4/5の礼拝説教
  若獅子のように

   箴言28:1
   使徒21:7〜14
   ルカ13:31〜33                皆川尚一牧師
殺人者の弱み
  悪しき者は追う人もないのに逃げる、
  正しい人はししのように勇ましい
  (箴言28:1)。


  ここに、「悪しき者は追う人もないのに逃げる」とありますが、悪人は何時自分の悪事がばれるかを怖れて、ビクビクしていますから、逃げて歩くのです。
  もう40年以上昔のことになりますが、ある朝早く未だ暗いうちに男の人から電話がかかってきて、「ちょっとご相談したいことがあるので、お伺いして良いでしょうか」とだけ言うのです。自分の名も名乗らないし、暗い声でした。「良いですよ、いらっしゃい」と答えますと、40分くらい経って、その人は訪ねてきました。その人はノイローゼになっていて、ひどくおそれていました。彼は大きな貨物船の乗組員でしたが、何年も前のある晩、遠くの海洋を航行中に甲板で同僚と喧嘩をして、相手を海に突き落として死なせてしまったのです。しかし、彼がやったことは誰も知らなかったので、殺人罪に問われることもなく、無事に家に帰って来ました。愛する妻も子もいるので、殺人罪に問われたら大変だという怖れに絶えずつきまとわれていました。毎日落ち着かないので、朝早く未だくらいうちに家を出て、人があまりいないところを歩き廻って、夕方暗くなってから家に帰るのだそうです。あの頃の相模大野から大和までの小田急沿線は林と畑ばかりで、人家があまりありませんでしたから、そういうことも出来たのです。
  わたしは気の毒に思って、彼の秘密を守ることを約束し、毎朝早く来て聖書を読み、一緒に祈ろうと提案しました。すると彼はとても喜んで、毎朝欠かさず通ってきました。やがて1年もしないうちに、彼は心にイエス様を受け入れて明るくなって来ました。罪の悔い改めもして、自分で祈れるようになりました。そして、礼拝にも出席するようになったある日、「もう一度船に乗りたいのですが、どうでしょうか?」と相談しました。そこで、「神様が良いと思われるのならば、道を開いて下さい」と一緒に祈り、彼は船員組合や上司に相談に行きました。すると、アラスカ航路の貨物船の機関長の口があったのです。そこで就職することになり、船長や乗組員たちとの顔合わせがありました。その会合の帰りに彼はわたしを訪ねてきて、「いや、いや、ビックリしました。今度の船には前の船の同僚で、わたしにひどく意地悪をした連中が3人もいたのです。絶望的な気持になりました」と言いました。
  「ああ、そうですか、ではイエス様に祈りましょう」と言って、わたしは祈りました。「イエス様、T兄弟はあなたを信じてノイローゼを癒されて、こんなに元気になりました。そして今度はアラスカ航路の船に乗り組んで出かけることになりました。感謝いたします。あなたがこの道を開いて下さったのですから、必ずこの兄弟を助けて下さるに違いありません。どうか、前に意地悪をした人たちが、仲良くしてくれますように。どうか、兄弟を助ける人を起こして下さい」と。それで言いました、「さあ、Tさん。イエス様にお願いしたからもう大丈夫ですよ。安心して行ってらっしゃい」。彼はイエス様を信じて明るく元気に出発したのです。
  やがて、3ケ月の航海を終えて、Tさんはニコニコしながら帰ってきて報告しました。「先生、お祈りが聞かれました。前に意地悪をした人たちは全然悪いことをしなかったし、反って非常に親切な人が2人いて何から何まで助けくれました。それで今度は一年間のアフリカ航路に行くことになりました」。それからあと、家が久里浜に移転し、彼は訪ねて来なくなりました。つまり、彼はイエス様を信じて義人の道を恐れなく歩む人になったのです。

若獅子のように
  そこで、次の段を見て下さい。「正しい人はししのように勇ましい」とありますね。この「正しい人」とは、ヘブライ語の(ツァディック)で「義人」と訳した方が良いと思います。なぜならそれは、「正義の人」といういみでなく、
「神様を信頼する人」という意味だからです。「勇ましい」(イブター)は、
「自信がある」と訳す人々もいますが、これは元々「信頼する」という意味なので、「神様に信頼する」と訳したいと思います。また、「獅子」は普通ヘブライ語で(アリイ)と言いますが、ここでは(キフィール)なので、「若獅子」と訳します。そこでこうなります。
「義人は若獅子のように神を信頼する」
自信があるからではなく、神を信頼するから若獅子のように勇気ある行動をとるのです。

イエス様の勇気
  イエス様は若獅子のように勇気ある行動をとられました。先ほど朗読した。《ルカ13:31〜33》をご覧下さい。
「ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、
「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえないからである』」。

つまり、たといヘロデ王がイエス様を殺そうとしても、神様に信頼するイエス様をガリラヤで殺すことは出来ない。イエス様の死に場所はエルサレムと決まっており、その時もまた神様がお決めになる。その時が来るまでは死ぬことは無いとイエス様は信じておられたので、若獅子のように行動出来たのです。

死ぬことと見つけたり
  佐賀・鍋島藩の武士山本常朝が語ったという「葉隠れ」という本の中に面白いことが書いてあります。
「武士道とは死ぬこととみつけたり。つまり武士たるものは行住坐臥常に死を目の前に置く。何時どんな形で死ぬかを予め毎朝床の中で経験しておかねばならぬ。先ず、あらゆる死を死んでおけば、死に直面しても心乱れることはない。必死の観念、毎朝身心をしずめ、弓、鉄砲、槍、太刀先にて、ずたずたになり、大波に打ち取られ、大火の中に飛び入り、雷電に打ちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈の崖に飛び込み、病死、頓死等あらゆる死期を覚えて、毎朝死んでおくべし」。これも一つの生き方であります。

生きることと見つけたり
  ところで、わたしたちクリスチャンはどうでしょうか。キリスト教の歴史の中では、ローマ・カトリック教会はキリストの十字架の死に重点を置いて、先ずキリストと共に死ぬことを最高の幸せと見ました。しかし、原始キリスト教も正教会もキリストの復活に重点を置いて、キリストと共に甦ることを最高の幸せと見ました。イエス様の十字架の死を見たローマ人の百卒長も神をあがめ、「ほんとうに、この人は義人であった」と告白しています(ルカ23:47)。
  十字架の上のイエス様の死に様は、老衰したライオンのように弱々しく終末を迎えたのではなく、若獅子のように命にあふれ、神に背く人々のために罪の赦しを祈り、悔い改めた犯罪者に天国を約束し、母親を弟子に託し、「すべてが終わった」(テテレスタイ)と大音声で叫び、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と静かに祈って息を引き取られました。正に義人の雄雄しさではありませんか。死を超えた永遠の命の躍動をここに見ることが出来ます。わたしたちはこう言いたい、「キリスト道とは生きることと見つけたり。行住坐臥、常に生きていることを観念すべし。毎朝キリストにあってあらゆる場面において限りなき命に生きることを経験すべし」と。  
  一昨日の朝面白い夢を見ました。それはその日一日にある恵みのスケジュール表が壁いっぱいに張り出されているのです。はじめに左の端の穴から恵みの光がパアーッと輝いて流れ出しました。次は真中の穴から光が滝のように流れ落ち、次に一番右の端の穴からパアーッと光の滝が流れ出しました。そしたら「四十箇所から恵みがあふれ出る」という声がして、壁一面に四十箇所の穴から光の滝が流れ出したのです。その見事なこと、仕掛け花火のナイアガラの滝のようでした。起きてからノートにイラストを書きました。  

  どうか、常に若々しい命が聖霊によって腹の底から湧き上がることを覚えつつ、死を超えて生きて行こうではありませんか。 アーメン

次回予告 09.4.12  命は素晴らしい(マタイ28:1〜10)

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