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                                          2005/08/07の礼拝説教
  夫婦の祝福

   箴言5:15〜23
   コロサイ3:12〜17
   ヨハネ2:1〜11                  皆川尚一牧師
誘惑に注意
 箴言第5章の前半(1〜14節)は、男と女のかかり易い誘惑に注意して、これを避けるように勧めています。特に、ソロモンは男性ですから、世の男たちにたいしてみだらな女に気をつけなさいと忠告するのです。
先ず、第3節を見ると、

  「遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、
  その言葉は油よりもなめらかである」

とありますが、この「遊女」(イッシャー・ゾーナー)と訳されているヘブライ語には「遊女」、「みだらな女」、「人妻」、「異国の女」という意味がふくまれていますので、聖書の中では、時と場合に応じていろいろに訳されています。男の立場から言えば、甘い言葉に誘われて関係すると、大変なことになる。最初は甘くても、金をせびり取られて全財産を失うことになるかも知れないのです。

 日本では昔から、「据え膳食わぬは男の恥」という男にとって魅力的なことわざがありますが、うっかり据え膳を食ったために、やくざに脅されて身ぐるみ剥がされた上、命まで取られた人々もいます。
「後悔先に立たず」ということわざの通りに、破滅の段階に来て悔やんでも遅いのだと戒めています。もちろん、女性にとっても警戒すべきものは「女たらし」「詐欺師」「みだらな男」ということになります。女性作家の
塩野七生(ななみ)さんが、「男たちへ」という本の中で、トルストイ著
「戦争と平和」のヒロイン、ナターシャの場合をとりあげています。
ナターシャは、「みだらな男」ではなく、「生まじめな男」ボルコンスキー
公爵のせいで悪名高い女たらしの男の誘惑に乗ってしまうのです。

 それは白い軍服のボルコンスキー公爵と何度もダンスするうちに彼女が彼に夢中になり、結婚の申し出を受けて燃え上がります。ところが
公爵は彼女があまりにも若いので、すぐに結婚せず、一年間秘密の
婚約期間を無事にまもり通すことができたら結婚しようと言ったのです。その一年間は文通もせず、会いもしないという条件つきでした。ナターシャは「そんなこと、とても我慢できないわ !」と叫び声をあげたのですが、公爵は耳をかしませんでした。その結果、心に火のついたナターシャはもともと生命力あふれた女性でしたから、ついつい女たらしの男の口車に乗って、駆け落ち寸前まで行ったとき、彼女の恋愛の噂がボルコンスキーの耳に入り、婚約は破棄されます。彼女が本当に愛していたのは
ボルコンスキーだったのに、彼の求めた自制心が彼女にとっては過酷なものであったせいで、二人の関係は破れてしまったと塩野さんは
見るのです。

 ナターシャは燃え上がった情熱のはけ口をだれかに求めずにいられなかった。もしも、これを罪と呼ぶのならば、罪は彼女のいきいきした性格であったのだとトルストイも理解しているようです。このように男と女の
問題は一口には裁けないものがあります。

夫婦の祝福
 次に、箴言第5章の(16〜19節)を見てください。

   「あなたは自分の水ためから水を飲み、
   自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。
   それを自分だけのものとし、
   他人を共にあずからせてはならない。
   あなたの泉に祝福を受けさせ、
   あなたの若い時の妻を楽しめ。
   彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。
   いつも、その乳ぶさをもって満足し、
   その愛をもって常に喜べ」。

 ここで「水ため」とか、「井戸」とか、「泉」とかいうのは、自分の妻のことを指しています。「妻を楽しめ」とか、妻を「鹿」にたとえるとか、「その乳
ぶさで満足せよ」とかいうのは、性生活を指しています。驚くべきことには世の中の夫婦で本当に満ち足りた性生活を経験しているカップルは30%か40%に過ぎないということです。なぜそんなに少ないのでしょうか?
それには色々な原因があるようです。

1.聖書のみ言についての間違った解釈によ って、結婚は肉欲を満たすためではなく、子孫を遺すためものだという教理が生まれました。
これは使徒パウロの教えの一部を拡大解釈した禁欲主義の教父
アウグスティヌスが発展させたもので、結婚生活の中においても性の
快楽を貪ってはならないというのです。
 以前、わたしは、ある精神科の医師からカトリック信者の妻が自分の
求めに応じてくれないので悩んでいるとの相談を受けたことがあります。わたしは「聖書では、食欲も性欲も神様が作られて良しとされたものであるから、感謝して受けるなら捨てるべきものは無いと教えられています」と詳しく説明してあげました(Tテモテ4:1〜5参照)。

2.性生活を楽しむためには、それに相応し い知識が必要です。戦後はヴァン・デ・ヴェルデの「完全なる結婚」が唯一の手引き書といっていい
くらい少なかったのですが、今は情報が多すぎるほどです。その中から良書を選んで自分たちに合ったものを試してみる必要があります。
これは、夫婦の片方だけが熱心でも成り立ちません。両方がその気に
なって初めて結婚生活を楽しむことができるのです。

3.結婚生活を楽しむためには、心のゆとり、 体の健康が必要です。

4.それと同時に、相互理解を深めること、 共通の楽しみを作ることも
大切です。また、同じ信仰を持ち、価値観を共有することも必要です。

5.「その愛をもって常に喜べ」(19節)と いうのは性生活だけでなく、
互いに成熟した人間としての成熟した愛をはぐくむことを意味しています。 「あなたの若いときの妻を楽しめ」(18節)というのは熟年になった
人へのアドバイスであろうと察せられます。

6. 最後に、夫の霊魂と妻の霊魂との合一。 これが幸せな結婚の究極の目標です。

新渡戸稲造の妻
 これについては、新渡戸稲造博士の夫人万里子さんの話があります。万里子さんはアメリカ人で(旧名エルキントン)フィラデルフィアのクェーカー派の家庭に生まれ、その派の学校で教育を受け、同じクェーカー派の新渡戸博士と知り合い、1891(明治24)年に結婚して日本に来ました。彼女は生涯夫と苦楽を共にし、非常に内助の功があったといわれます。あの世界的な名著といわれた「武士道」も、夫婦の対話の中から生まれました。また貧しい少年たちのために夜学校を建てたり、動物愛護運動を始めたり、社会的な貢献が大きかったのです。

 夫の新渡戸博士が先に帰天されましたが、その葬儀が終わって間もないころ、友人のガントレット恒子さんに嘆いたそうです、「日本の人たちは不思議なことを私に尋ねます。いつまで日本にいますかとか、いつお帰りになりますかと、よく質問されるのです。あの人たちは私が新渡戸稲造の妻であることを忘れたのでしょうか。私は夫の国の土となるつもりですのに」と。ここに結婚生活における夫婦の祝福がよく現れているのではないでしょうか。

主に見守られる祝福
 「人の道は主の目の前にあり、
  主はすべて、その行いを見守られる」(21節)。

 最後にこのみことばに目をとめましょう。これは私たちを脅迫しているのではありません。見守る(バーラス)というのは、温かい愛のまなざしでわき道に逸れないように見守って導いて下さるという意味です。

 詩篇第23篇を思い出して下さい。「主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる」(3節)とあります。それと
同時に、わたしたちの行いは全てわたしたちの魂に記録されていて、
死後の世界で見せられるのです。その時わたしたちは、人の道がすべて主の目の前にあるということを知るでしょう。悪い道を選べば、悪い結果になります。「悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる」(22節)。それはこの世で起こることですが、死後の世界では
もっとはっきりと見せられます。その意味でわたしたちは主イエス・キリスト様の救いによって祝福された生き方を真剣に祈り求めて歩みたいと
思います。                               アーメン

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