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                                          2005/01/30の礼拝説教
  知恵を嘲るな

   箴言1:20〜33
   Tコリント1:18〜25
   マタイ11:28〜30                皆川尚一牧師
知恵は、ちまたに呼ばわり、
市場にその声をあげ、城壁の頂で叫び、
町の門の入口で語る。
「思慮のない者たちよ、あなたがたは、
いつまで思慮のないことを好むのか。
あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
わたしの戒めに心をとめよ、見よ、
わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、
わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを 拒み、
手を伸べたが、顧みる者はなく、 かえって、
あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、
わたしの戒めを受けなかったので、
わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、
笑い、あなたがたが恐慌にあう時、 あざけるであろう。
これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、
つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、
あなたがたに臨む時である。
その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、
しかし、わたしは答えない。
ひたすら、わたしを求めるであろう、
しかし、わたしに会えない。 彼らは知識を憎み、
主を恐れることを選ばず、 わたしの勧めに従わず、
すべての戒めを軽んじたゆえ、 自分の行いの実を食らい、
自分の計りごとに飽きる。
思慮のない者の不従順はおのれを殺し、
愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、
災に会う恐れもなく、安全である」           (箴言1:20〜33)。

知恵は呼ばわる
 「知恵は、ちまたに呼ばわり、
  市場にその声をあげ、
  城壁の頂で叫び、
  町の門の入口で語る」(20〜21節)。

これは本当のことでしょうか?この「知恵」(ホクマ)とは神の知恵をいうのです。知恵は人間ならば自分の頭の中で生み出され、頭の中で働く思いだと考えられます。それならば呼ばわったり、叫んだりしないのではないかというと、そうとも限りません。知恵は心の思いとして湧きますが、そのまま静かに潜んでいるのではなくて、その思いは言葉となって発動し、
行動となって何かを生み出し、作り出して行くでしょう。思いは知恵であり、知恵は言葉となり、行動となる。それは人間の中には霊があって、知恵を人に伝えるために情熱をこめて大声で叫ぶからです。神様の知恵も同じです。神様の思い、神様の知恵は神霊のダイナミックな発動によって、言葉や思いとなって人の霊に伝達されます。

 ここでは、「ちまた」というと「大通り」とか「十字路」とか、「町の広場」を意味しています。「市場」も人の集まる買い物の場です。城壁の上は多くの人々に同時に声を届かせるのに適していますし、町の門の入口は
公けの会議や裁判の場でもあります。つまり、神の知恵は出来るだけ
多く人に伝えられる場所を選んで語り告げるのです。

  多くの註解書には学者が、「これは知恵の擬人化である」と書いていますが、それならば「呼ばわる」とか「叫ぶ」とかいうのは譬喩になってしまいます。そうではなく、神の知恵は事実、呼ばわったり、叫んだりするのです。それは二つの方法によってです。

(1) 人を通して。神様は昔から預言者を通して街頭(ちまた)や市場や人々の集まる場所で知恵を語らせて来ました。イエス様も、会堂、神殿、草原、海辺などで多くの人に届く大音声で神の言、神の知恵を語られました。

(2) 今一つは、直接、聖霊によって人の霊、人の心に語るのです。わたしたち各人の心に神の知恵は、思いとなり、言葉となって伝えられて来ます。イエス様は弟子たちに、「わたしが暗闇で話すことを明るみで言え、耳にささやかれたことを屋根の上でいいひろめよ」(マタイ10:27)と言われました。わたしたちはひとりで密室にこもって祈る時にも、ベッドや寝床の上で臥している時にも神様のささやきを心の耳で聞くことが出来ます。その神の知恵に従って行動し、神の言を自分の口を通して人に伝える
使命があります。その時、わたしたちの口を通して知恵は大声で呼ばわられるのであります。

知恵を嘲るな
  「思慮のない者たちよ、あなたがたは、
  いつまで思慮のないことを好むのか。
  あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
  愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか」(22節)。

 「あざける」という態度は、どんな場合であっても、人間にはふさわしく
ありません。なぜなら、あざける人は自分が正しくて、他の人が間違っていると思うからです。それは思慮が足りないことになります。どんな場合でも百パーセント正しいものはありません。もちろん神様は百パーセント正しいですが、人間は不完全ですから百パーセント正しいとは言えません。人が見て一部分間違ったものを見つけると全部間違っていると思う。これは思慮が足りない判断の仕方です。又、逆に人が見て一部分正しいものを見つけると全部正しいと思う。これも思慮が足りない判断の仕方
です。その結果、一部正しい考えにとらわれて、自分と違う考えを完全に否定する、そうすると「あざけり」が出て来ます。
「あいつは馬鹿なやつだ。くたばれ!」などと罵声をあびせるのです。

 * 主イエス様が捕らえられた時、ローマ軍の兵士たちはイエス様に
赤いマントを着せ、茨の冠をかぶらせ、葦の棒を持たせ、「ユダヤ人の王ばんざい」と言いました。そしてイエス様につばを吐きかけ、葦の棒を
取り上げてその頭を叩きました。また、祭司長、律法学者、長老たちも
十字架につけられたイエス様を見て、あざけりました。「他人を救ったが自分自身を救うことが出来ない。あれがイスラエルの王なのだ。
いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう」と。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエス様をののしりました。

わたしの霊を注ぐ
 しかし、神の言、神の知恵は受肉して人間イエス様となり、大声で、
公に、全ての人々に届くようにと救いに至る知恵と信仰の道を宣べ伝えたのです。しかし、大多数の人々は神の知恵、神の救いであるキリスト・イエス様を信じませんでした。しかし、信じた人もいたのです。神の知恵は素直に受け入れる個人の霊魂に受け取られ、聖霊を満たします。
≪23節≫を見て下さい。

  「わたしの戒めに心をとめよ、見よ、
  わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、
  わたしの言葉を、あなたがたに知らせる」。

 この中に誤訳があります。「見よ、わたしはわたしの霊をあなたに注ぎ、わたしの言葉をあなたに知らせる」が正しい訳です。神の霊は、神の言葉を個人的に受け取る人の中に注がれ、満たされ、確かな力となるのです。

 * 第2次大戦中、ナチスに捕らえられ、投獄されたルター教会のA牧師は、獄中で、ののしられ、あざけられ、ひどい仕打ちを受けました。
しかし、ある日彼の心に神の声がきこえて来ました。
「彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。
彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう」(申命記32章35節)と。
 A牧師の心は聖霊で満たされました。それから間もなく、米英連合軍がやって来て、ナチスは敗退しました。ドイツ兵が荒々しく彼の独房の扉を開いて、「おれたちは何でこんなひどい目に遇うんだ。神はいないのか!」と叫びましたので、A牧師は「これが神の在す証拠だ!」と叫び返したのだそうです。ドイツ兵たちは神の知恵をあざけり続けましたから、
自分に災いが臨んだとき、あわてふためいて、神をののしるほかありませんでした。まさに、
「思慮のない者の不従順はおのれを殺し、 愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす」(32節)ということになったわけです。
わたしたちは何事につけても「あざけり」をやめて、神様の知恵であり
救いであるイエス様に従って歩いて行きましょう。         アーメン

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