| 2002年6月2日の礼拝説教 |
![]() |
![]() |
金より大きな力
使徒3:1〜10 イザヤ35:3〜7 ルカ7:18〜23 皆川尚一牧師 |
![]() |
![]() |
祈のとき さて、ペテロとヨハネとが、午後3時の祈のときに宮に上ろうと していると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。 この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と 呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。彼は、ペテロと ヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるもの をあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、 立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。 そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、 彼らと共に宮にはいって行った。民衆はみな、彼が歩き回り、 また神をさんびしているのを見、これが宮の「美しの門」の そばにすわって、施しをこうていた者であると知り、 彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ(使徒3:1〜10)。 キリストの弟子ペテロとヨハネとが、午後3時の祈りのときに神の宮で祈ろうとして美しの門にさしかかったら、ひとりの乞食が運ばれてくるのに出会いました。 ユダヤ人の律法によれば、一日三回特別な祈りのときが定められて いました。午前9時(第3時)、昼の12時(第6時)、午後3時(第9時)の三回です。ユダヤ人はどんな場所でささげられた祈りでも効果があると考えて はいましたが、特に神の宮の庭でささげた祈りには二倍の効果があると思っていました。ですから熱心な信仰をもつユダヤ人は熱心に宮もうでをしたのです。 祈ることは大切です。人はだれでも祈ることによって神様と出会い ます。祈らない人はいつまで経っても神様と心の波長が合わないから 信じられないのです。 * クリスチャン詩人の八木重吉の詩にこういうのがあります。 よぶがゆえに みえきたるものあり よぶことなければ 消えゆくものあり さて あかんぼは なぜに あんあん あんあん 泣くのだろうか ほんとに うるせいよ あんあん あんあん あんあん あんあん うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなにしつこくよびな 自分の家で祈っても神様は聞いて下さいます。しかし、教会に来て祈ればもっと聞いてくれます。なぜなら「どうせ聞いてくれるのなら家で祈った方が楽だ」と考える人は熱心には祈りません。ちょっと祈って願いがかなわなければ、すぐあきらめるか、「神様はわたしの事なんかどうでもいいんだ」と不平を言うのがおちです。しかし、神様は親切で愛情豊かな天のお父様だから、きっとわたしを助けてくださると信じて、しつこく呼んで行くと、何かが見えて来ます。何かが起こってきます。つまり「ああ、神様だ」とわかる出会いの瞬間がおとずれるのです。 足のきかない男 さて、ペテロとヨハネとが出会った男は不幸な人でした。彼は生まれながら足のきかない男でありました。「生まれながら」とは原語の直訳では 「母の胎内にいたときから」というのです。母の子宮の中にいて筋無力症にかかっていたのです。だから生まれ落ちてからこのかた歩いたことがなかったのです。もう40歳ぐらいになっていたので、40年も歩くことが出来なかったのですから、本人も医者も治る見込みは全くないと思っていました。だから神様に祈っても無駄だ、人々の情けにすがって、お金を恵んでもらうほかに生きて行く道はないと考えていました。お金、お金、お金。お金さえあれば何とか食べていける。そう思っていました。 金より大きな力 この男が「お金を恵んで下さい」と声をかけたペテロとヨハネも、 実はお金を持っていなかったのです。しかし、彼らは別の力を持って いました。ペテロが言いました。 「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。 ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 こう言って彼の右の手を取って起こしてやると、足と、くるぶしとが立ちどころに強くなって、躍りあがって立ち、歩きだしたのです。ペテロやヨハネは主イエス様から使徒に任命されたとき、すでに病気をいやし、悪霊を追い出す権威と力とを受けていました。これはイエス様の名で命じると 聖霊の力が彼らの内側から発動するのです。丁度イエス様がこの地上で働かれた時と同じように、主はわたしたちの体の内側から働き出されます。この順序は大切です。先ず「わたしたちを見なさい」と言って、自分に注目させ、次に「イエス・キリストの名」を宣言し、病人の右手を取って起こそうとすること。これによって病人は希望をいだかせられます。起こそうとする力に応えて立ち上がろうとする。この両方の意志が一つになる時に、しばしば聖霊の不思議な力が発動するのです。これが信仰です。使徒は主イエス様を信じる。病人も主イエス様を信じる。この目に見えない信仰が聖霊の電流を媒介する接触点となり、電線となるのです。 イエス・キリストの力は金で買うことが出来ません。 ただ、わずかの信仰があれば、それはあなたのものとなります。 * 昔、千葉のある不動産業者がシンナー遊びをしていた高校生に注意したら胸を飛び出しナイフで刺されました。何日も意識不明の重態におちいりましたが、やっと峠を越えて落ち着いて来たある日、わたしは彼を 訪問したのです。救い主イエス様のお話をしてから、「イエス様にいやして下さいとお祈りしますか」と尋ねました。というのは、彼の胸の傷から 毎日200ccずつ胸郭内に出血していたからです。「お祈りしたいです」と ハッキリ意志を示したので、「では祈りましょう」と言って、イエス様が彼を憐れんで今も昔と変わりない救いの力を示して下さるように祈りました。すると翌日の検査の時、出血が完全に止まっていることが判明し、すぐに退院の許可が出ました。彼は泣いてイエス様に感謝し、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。 このように、イエス・キリストの力は金よりも大きな力であります。 金もたしかに必要ですが、金がすべてではありません。すべての必要は優しい天のお父様が満たして下さるから、何よりも先ず、イエス様を 信じて、イエス様と共に歩みましょう。 アーメン |
![]() |
トップページ >> 説教 >> 使徒行伝 >> (10) >> (11)へ進む |