| 2002年8月25日の礼拝説教 |
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病気の癒し
使徒5:12〜16 イザヤ53:3〜5 マタイ9:35〜38 皆川尚一牧師 |
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キリストによる癒し そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により 人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、 ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、 その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、 ますます多くなってきた。ついには、病人を大通りに運び出し、 寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、 そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。 またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、 病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、 集まってきたが、その全部の者が、 ひとり残らずいやされた(12〜16節)。 初代エルサレム教会が聖霊の活気にあふれていた有様は多くのしるしと奇跡とが現われたことにも見られます。「しるし」とは、神の臨在のしるしです。言い換えれば、復活したイエス・キリスト様がここにいて働いて おいでになる「しるし」なのです。イエス様は肉眼では見えないけれども、信徒の中に宿っておられます。個人としてのクリスチャンの中に、そしてクリスチャンの共同体である教会の中に宿っておられます。イエス様が今、ここにおられるという実感としるしとは、祈るとき、讃美するとき、説教や信仰の証しを語ったり聞いたりするときに感じられます。又、病人を前にして祈るときに現われてくるのです。福音書の中でイエス様が行われたいやしの働きが私たちを通して継続されているのです。 特に、ここで「使徒たちの手により」と書いてありますのは、使徒たちには神のみ言を語り、病気を癒し、悪霊を追い出す権利と力とが与えられていたからです。イエス様がご自身の代理として用いられる人には、この権威と力とが授けられます。牧師や伝道師、宣教師であっても出来ない人もいれば、信徒であっても出来る人もいます。どんな場合でもキリストによる癒しです。イザヤ書53章によりますと、 「主はわれわれの病と悲しみと罪とを負って苦しみ、癒して下さる救い主なのです」(4〜6、12節)。病気のいやしは救いの一部です。 キリストの救いは全人格が父なる神様に立ち帰ることです。私たち人類の罪を背負って十字架上に死なれたイエス様は復活して信徒に聖霊を満たし、信徒の体を通していやしを行われます。聖霊の器である人は、神の指先そのものです(マタイ10:1)。 癒しの方法 (1) 手を通して。 聖書では「手を置くこと」を按手といって神の霊の接触点とします。 聖霊は手を通して他の人の中に伝達されます。「手をかざす」ことによっても聖霊の力が現われます。病気をいやすためには、その人の頭に手を置いたり、患部に手を置いたりしますが、悪霊を追い出すときには、 相手の体に触れないで「イエス・キリストの御名と御血潮によって命ず。悪霊出て行け!」と命令するのです。 (2) 本人が癒しを熱望することによって。 1.ペテロの影なりと病人の上にかかれば癒されると信じて 大通りに病人を運び出し、寝台や寝床の上においた。 2.イエス様の衣(マルコ5:27〜29)、 パウロの前掛、手拭(使徒19:12)。 3.神の人に祝福してもらったハンカチを病人につけて祈る。 4.テレビや映画を通して人が癒される場面を見ながら 自分や人の患部に手を置いて祈る。 5.異言の讃美、罪の赦しの宣言を聞いているうちに癒される。 自分の罪を告白し、人をゆるすことによって癒される。 6.何としても癒されたい一心で、遠い道のりをものともせず、 教会や聖会に来て、神の人の説教を聞いているうちに癒される。 こうした努力は自分の信仰か他人の信仰か、とにかくいずれにせよ、 信じて期待する信仰を通して、神の霊が働くのです。 癒しの目的 病気の癒しの目的は何か、と尋ねれば、 「そんな事はわかりきっている。健康な心と体で生きるためだ」という答えが返ってくるでしょう。その通りです。しかし、それだけではないと思います。健康な心と体をもって神の栄光を現わして生きるためであります。 つまり、神様との正しい関係と親しい交わりに入ることが、先ず病気の 癒しを契機として始まってこそ、本当の救いになるのです。 * 10人のらい病人の話(ルカ7:11〜19)イエスさまのもとに10人のらい病人が来て、遠くの方から声を張り上げて言いました、 「イエス様、わたしたちをあわれんで下さい」と。イエス様はただ、 「祭司のところに行って、からだを見せなさい」と言われただけでした。 しかし、彼らが祭司の所へ行こうと進んで行く間に、10人ともすっかり らい病が癒されていました。すると、そのうちのひとりがイエス様のもとに帰って来て、「神様は何と素晴らしい救いでしょう」と感謝をこめて神を ほめたたえました。これは日頃ユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人だったのです。イエス様はこの人に、「立って行きなさい。あなたの信仰が あなたを救ったのだ」と言われました。それはこのサマリヤ人が病の癒しを通して神様との交わりに復帰することが出来たからです。 * ある人は、「病気が治ったら洗礼を受けます」と私に言いました。 そこで私がイエス・キリストの御名で祈ると病気が治って元気になりまし た。しかし、教会に来ようとはしませんでした。要するに神様なんかどうでもよくなったのです。 しかし、それは本当は恐ろしい事なのです。 人は健康であろうと、病気であろうと「罪」という大問題をかかえた存在 なのです。それが病気と死の原因でもあります。「死にたくない」とか、 「死は恐ろしい」とかいうのは、罪によって神様から切り離された孤独感から来ているのです。 * N兄弟は3歳の時に独りで家の中で遊んでいて突然「自分は死ぬんだ」と思った時、一切のものから切り離された孤独感におそわれて、押入れにもぐりこんで布団をかぶったそうです。それでもその恐怖によって ブルブル震えていたそうです。それからずっと後で、成人してから聖書を読み、エデンの園で禁断の実を食べたアダムとエバが裸であることを 恐れていちじくの葉で体を隠したのを読んだ時、彼らも自分と同じように魂の死、つまり神様からも一切のものからも切り離された自分の孤独感に陥ったのだと悟ったそうです。 * 実は私も、17歳の時、これまでの人生の映像をテレビで見るように見せられて、このままで死んだら大変だと思いました。罪を解決しないでは大学受験に打ち込めないとひたすら「贖われること」をイエス様に祈り求めました。そしたら、日曜の礼拝の中で、十字架のイエス様が現われてくださり、私はイエス様のご愛に抱かれて、辺りかまわず声を上げて 泣いて感謝をささげたのです。 病気でなくとも、罪の深渕は神様が示してくだされば分かります。 しかし、病気になるともっと良く分かります。自分は自分の力で生きているのではない。目に見えない神様の愛と生命によって生かされているのだと、分かります。まして、病気を契機として、神様の癒しを体験することにより、人は神に帰ることが出来ます。ここに「主を信じて、仲間に加わる者が、男女ともにますます多くなってきた」(14節)とあるように、 ここ相模大野教会にもそれを見ましょう。 アーメン |
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