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                                        2002年11月17日の礼拝説教
  主に従って歩む

   使徒7:35〜53
   申命記10:12〜16
   マタイ13:47〜50                皆川尚一牧師
ただ一人の神
  こうして、『だれが、君を支配者や裁判人にしたのか』と言って
  排斥されたこのモーセを、神は、柴の中で彼に現れた御使の手に
  よって、支配者、解放者としておつかわしになったのである。
  この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、
  紅海においても、また40年のあいだ荒野においても、
  奇跡としるしとを行ったのである。この人が、イスラエル人たちに、
  『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの
  中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』
  と言ったモーセである。この人が、シナイ山で、彼に語りかけた
  御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、
  生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
  ところが先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、
  心の中でエジプトにあこがれて、
  『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプト
  の地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』
  とアロンに言った。そのころ彼らは子牛の像を造り、
  その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭って
  うち興じていた。そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに
  任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである。
  『イスラエルの家よ、 40年のあいだ荒野にいた時に、
  いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
  あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。
  それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。 だからわたしは、
  あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
  わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。
  それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語った
  かたのご命令どおりに造ったものである。この幕屋は、わたしたちの
  先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から
  追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に
  受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
  ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を
  造営したいと願った。けれども、じっさいにその宮を建てたのは、
  ソロモンであった。しかし、いと高き者は、手で造った家の内には
  お住みにならない。
  預言者が言っているとおりである、
  『主が仰せられる、 どんな家をわたしのために建てるのか。
  わたしのいこいの場所は、どれか。
  天はわたしの王座、地はわたしの足台である。
  これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
  ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。
  あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。
  それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
  いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、
  ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを
  殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、
  また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた
  律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」(35〜53節)。

 ステパノは最高裁判所の法廷に立って、弁明しています。彼が訴えられた理由は、ステパノが「イエス様はこの神殿をこわし、モーセの律法や慣例を変えてしまうだろう」と言ったという問題でした。この訴えに対するステパノの答弁は、逆に訴えている人々がモーセの律法をやぶり、神様に逆らっているということでした。この神に対する不従順を三つの実例を挙げて彼は示すのです。
 第一に、ユダヤ人は唯一の神ヤーウェだけを拝せよという戒めを破りました。
 荒野では、エジプトの金の子牛の像を作って拝みました。
カナンでは、モロクやロンパという星の神々を拝んでみこしを担いで
お祭りをしました。その結果イスラエル人は戦いに敗れて、アッシリヤやバビロニヤの捕囚になるという報いを受けたのです。

神殿
 第二は、神殿です。神殿はもともと無かったものであって、神様が命じて造らせたものではありません。神様がモーセに教えて造らせたのは
「会見の幕屋あるいはあかしの幕屋」(出エジプト29:40)と呼ばれるものです。イスラエル人が移動して行くに従って自由に移すことが出来るこ
と。そしてその幕屋に神様がご臨在下さる自由があったということです。その幕屋に神の臨在を示す雲が満ち、夜には火が見られたのですが、神の臨在のある間は人々はその地に幕屋を中心に宿営を張って留まります。そして幕屋を離れて雲が昇るならば、イスラエル人の旅が始まるのでした。

メシア・イエス
 しかし、本来は幕屋も神殿も仮の宿に過ぎません。ステパノが言った、「いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない」という言葉
は、かつてソロモン王が神殿を造って神に献げた時の祈りの言葉から
来ています。「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることはできません。ましてわたしの
建てたこの宮はなおさらです」(列王上7:27〜30)。では神様はどこに
宿られるのでしょうか。それは神の御子イエス様の肉体の中にでした。

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
  わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光で
  あって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)。

 この聖句の中で、「宿った」(エスケノーセン)というギリシャ語を直訳
すれば、「幕屋した」です。イエス様の肉体という仮の宿に神はお宿りになったという意味です。まことにメシヤ・イエスの出現は、神の顕現であったことになります。ステパノは言いました「その義人であり、メシアであるイエス様が、モーセの予告した『もう一人の預言者』として来られたのに対して、この義人を裏切って殺してしまった。あなたがたは先祖たちと
同様に不従順の罪を犯したのだ」と。

主に従って歩む
 皆さん、今のわたしたちは主なる神様がどこに宿られるか知っていますね。それは第一にわたしたちの肉体の宮の中です。主は聖霊として人の身体の中に宿られます。わたしたちは自分と共に在す神様を昼も夜も、霊と真実とをもって、礼拝することが出来ます。第二にわたしたちは教会の集会の中に宿られる神様を礼拝します。礼拝堂があっても、無くても、わたしたちがキリストの名において集まる所に主が臨在して下さいます。そこで主イエス様は一人の牧師を立てて、神のこどもたちの群れの牧者として御言葉を語って養い導かれるのです。
 大切なことは神様に従順であるということです。それは、又、神様に
従順である牧者の導きにも従順であるということです。どうか常に主に
対して従順に従って行きましょう。                 アーメン

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