| 2002年3月24日の礼拝説教 |
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聖霊待望の祈
使徒1:12〜14 エゼキエル37:1〜10 ルカ11:9〜13 皆川尚一牧師 |
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敵の真っ只中で それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。 この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところに ある。彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。 その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、 バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンと ヤコブの子ユダとであった。彼らはみな、婦人たち、 特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、 心を合わせて、ひたすら祈をしていた(12〜14節)。 「それから」とは、主イエス様が天に昇って行かれるのを見守ってからのことです。11人の使徒たちは、オリブ山からエルサレムへと帰って行きました。その距離はおよそ900メートル(2000キュビト)ほどです。それは羊が狼の群の中へと入って行くように危険な行動でしたが、イエス様からエルサレムで聖霊の降るのを待てと命じられたので、それに従ったわけです。彼らはあたかも敵の真っ只中に潜入した兵士たちが、食糧や弾薬の空中投下を待つように、天を見上げて待っていたのです。 祈りの三条件 ここに記されている彼らの祈りの様子から、わたしたちは聖霊待望の祈りの三条件を教えられます。 第一は、彼らの共通の欠乏は聖霊であったという事です。 彼らは、 選ばれた使徒たちであり、イエス様の聖母マリヤ様や家族でありました。もとの職業は漁師、取税人、娼婦、貴族、主婦、テロリストなど様々の 経歴の持主でした。しかし、だれもかれもに共通の欠乏は「聖霊」でありました。鹿が谷川の水を慕い求めるように聖霊を求める(詩篇42:1〜2)のが人間の本性です。神様と共に歩むならば心の渇きがいやされます。 * 相模大野伝道所が開設されてから数年間は、祈祷会が振るわなかったのです。なぜ、みんな祈祷会に来ないのか? 原因を知ろうとアンケート調査をしました。答えには色々あって、 1.仕事で遅くなる 2.駅からの夜道が暗い 3.痴漢が出る 4.疲れる等でした。 しかし、1966年(S41)に聖霊が降って皆の心が神様の愛で燃えたら、 これまで5、6人だったのが20人以上も祈祷会に集うようになったのです。欠乏していたのは聖霊であったことがわかりました。 第二の条件は、共同体の祈りです。 「彼らは心を合わせて祈りました」(14節)。 「心を合わせて」(ホモテュマドン)という句は、使徒行伝では10回も 用いられています。意味は、「心を合わせて」「一つ心で」「いっせいに」 「口をそろえて」とか色々に訳出されますが、ただ人数が多ければ良いというのではありません。二人または三人が心を合わせると何倍もの力が発現するのです。 *パキスタンの諺に「1+1=11」というのがあります。 わたしたちは、各人が個人個人として聖霊の宮ですから、一人であっても偉大であり、尊い存在なのです。 しかし、又、教会はイエス・キリストを頭(かしら)と する共同体ですから、一個の教会も聖霊の宮なのです。ここでいう教会とは教会堂のことではなく、神の民としてひとつにされた人々の群、 グループのことです。心を合わせて祈ることによって聖霊が降ると一つ体となります。神の霊はバラバラな信者を結んで一つの霊の共同体とするのです。 第三の条件は、ひたすら祈ることです。 「彼らはひたすら祈りました」(14節)。 「ひたすら」(プロスカルテロー)とは一つの場所にとどまり、一つの行為を続けることです。ここでは「持続的に祈り続けた」わけです。その間に 使徒の補欠選挙もあり、必要な行動は祈りのほかにもありましたが、皆の心は常に天を見上げて聖霊を待つことで一致していました。10日後に聖霊が降るという神様からの予告があったわけではありませんから、 一日、一日、今か、今かと待っていたのです。 しかし、「あせれば」いくら祈っても聞かれないという雑念がわいたり します。反対に「いつかは来るさ」と気をゆるめると祈りは続きません。 だから「あせらずに急ぐこと」が大切だと思われます。 聖霊があなたに下さるもの 最後に、聖霊を慕い求める気持ちが熱くなるために、 わたしは、聖霊があなたに下さるものを箇条書きにしてみましょう。 (1) 罪が赦されていることを知る喜び (2) 神様に愛されている実感と安心感 (3) 夜の熟睡 (4) 危険な夜道を歩くときの御守り (5) 全家族の救いについての希望 (6) 本当にリラックスできる緊張感からの解放 (7) 煩雑な家事をこなす力 (8) 一日中心の中にメロディーをかなでる素晴らしい喜び (9) 平静さを失わず敵に勝つこと (10) イエスさまのために苦しむ特権と慰め (11) 主と共に働く喜び (12) イエス様と親しく交わる感動 皆さん、この12番目の「イエス様と親しく交わる感動」は、 何にも優る恵みであります。 * インドネシアのメルキオ・タリ兄はチモール島のオランダ改革教会の信徒で聖霊に満たされた神の人として、活けるキリストを証しして、本国からアメリカや日本までも巡回しているキリストの証人です。彼はある時から何かが起こったように、突然、主のご臨在が感じられなくなりました。淋しくて、孤独の中にとりのこされて、何がわるかったのだろうかと思い悩んでいた時、主が言われました、「メル、愛する者よ、あなたがわたしの臨在を感じられなくても、私はあなたと共にいるのです。子供が小さい時には、母親はたびたび抱きしめて、キスしてくれるでしょう。しかし、 二十歳の若者になればちがいます。安心感を得るために一日中抱いてもらうわけにはいきません」と。「イエス様わかりました。これからは信仰によって歩みます」と答えましたけれども、彼の心は主との甘美な交わりを望んでやみませんでした。ある日義兄が朝の祈祷会で聖書の中の エリヤが昇天した時の話をしていた時、突然天が開けて、栄光と聖い愛の波が次から次へとメルの内に押し寄せて来ました。主に抱かれ肌で 主に触れる喜びで一杯になり、強烈な主のご臨在を感じました。 その時から、あの孤独感は去り、いつも主と共にいる実感を持って 生きられるようになったということです。 * 私も先日、午前1時頃ベッドの上でテープレコーダーでテープを廻しながら、主イエス様と対話しました。私の口から主がお話になり、又、私の口から私が話すのです。この方法は1986年にカルメル山で日本に 対する預言をいただいた時以来、全くしていなかったものですが、すばらしい主のご臨在の中で輝かしい清らかな幸福感で一杯になりました。 皆さん、主イエス様との親密な交わりを求めて行くと、向うから思いも かけない方法で近づいて下さるのです。子供がクリスマス・プレゼントを待ち望むように聖霊を祈り求めて行きましょう。 アーメン |
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