| 2003/09/07の礼拝説教 |
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命の道への決断
使徒13:44〜52 申命記30:15〜20 マタイ7:13〜14 皆川尚一牧師 |
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次の安息日には、ほとんど全市をあげて、 神の言を聞きに集まってきた。するとユダヤ人たちは、 その群衆を見てねたましく思い、 パウロの語ることに口ぎたなく反対した。 パウロとバルナバとは大胆に語った、 「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。 しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命に ふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちは これから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 主はわたしたちに、こう命じておられる、 『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。 あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、 主の御言をほめたたえてやまなかった。 そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや 町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、 ふたりをその地方から追い出させた。 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。 弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた(44〜52節)。 神の言を慕う ピシデヤのアンテオケでパウロがユダヤ人の会堂(シナゴグ)において語ったキリストの福音は全市に大きな影響をもたらしました。次の安息日の礼拝には、全市民あげて会堂に集まるという驚くべき効果をあげました。即ち人々は「イエスを待望のメシア(キリスト)として信じるならば罪を赦され、永遠の命に入ることが出来る」という福音を聞いて大いに喜び、心に飢え渇きを生じて、もっと聞きたい、もっと知りたいという神の言を 慕う気持ちで一杯になりました。これが生きた信仰の始まりです。 これらのユダヤ人たちや、ギリシャ人たちは、宗教のない人ではなかったのです。それぞれ何らかの宗教を持っていたのです。しかし、その 宗教には真の命、霊の命がなく、霊の満足がなかったのです。すべて命あるものには力があり、命があり、満足と喜びがあります。そしてイエス・キリストの福音にはそれら全てがありました。 ねたみによる反対 けれども、そのようにすばらしいキリストの福音を聞いても、すべての人が信じるわけではありません。ここでもユダヤ人の猛反対が起こりまし た。その原因は彼らの「嫉妬心」でした。自分たちはこれまでのユダヤ教で一応満足している。ナザレのイエスがメシアであるかどうか、未だ確信が持てない、パウロやバルナバの話を聞いて、何かありそうだと思い、 すばらしいと思っても、自分の従来の考え方、生き方を変えるまでの 決心はつかない。ところが多くの人々がこれについて行くのを見ると、 はげしいねたみと憎しみに燃えて反対するようになりました。そこでパウロはユダヤ人たちに宣言しました。 「神の言は、まず、あなたがた(ユダヤ人)に語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、 さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と(46節)。 全ての人への福音 人間はみな、人類の始祖アダムとエバ以来、神様に背いて自己中心 となり、エデンの園から追放されて滅びへの道を歩く者となりました。 ですから滅びへの道は広く、多くの人の行く道です。「みんながそうやっているから大丈夫だ」と考えたら大変なことになります。人間は自然の心で歩けば、おのずから陰府と地獄へと入って行くほかありません。 「永遠の命」への道には光の天使ケルビムと回る炎の剣が置かれてい て、自力で入って行くことが出来ないのです(創世記3:24)。ユダヤ人で あろうと、ギリシャ人であろうと、またいかなる宗教の信者であろうと、 これが全ての人の運命なのです。神様がそうされたのです。 しかし、人類の始祖の叛逆の罪がハッキリした時、神様はエバの子孫 からメシアが生まれることを予告(預言)されました(創世記3:15)。 そのメシアこそ「ナザレのイエス」であります。ユダヤ人の先祖アブラハムを神様は選んで、彼の子孫イスラエル民族の中にメシアを送ると約束し、各時代の預言者たちを通してイスラエルに「メシア預言」を与え続けてこられました。ですから、先ずイスラエル民族に「イエスこそメシアである」との福音がイエス様ご自身から発せられ、ついで使徒たち、クリスチャンたちを通して宣べ伝えられました。しかし、これは元来、すべての人類に向けられた福音ですから、地の果てまで伝えられなくてはなりません。 そこで、ピシデヤのアンテオケにおいてユダヤ人たちが結束して反対したこの時期を境目として、福音宣教の流れは大きく異邦人に向けて方向を転換したわけです。これもパウロの口を通して聖霊が宣言されたこと だと思われます。 命の道への決断 ところで、ナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じて受け入れる人は バプテスマを受けて、イエス・キリストに属する者となるわけです。 これが、命の道に入る第一歩であり、イエス様が定められたイニシエーション(秘儀)であります。多くの人は思想的にイエス様は人類のキリストであり、霊的指導者であると肯定するだけで、何となしにキリストを受けいれているつもりになっているようですが、それだけでは命の道に入ったとは言えません。 神様はイエス・キリストをこの世の救い主と定めて、人間イエスとして 受肉させ、十字架上に人類の罪を背負ってのぼらせ、十字架を通して罪の赦しを与え、永遠の命への道を開かれたのです。呪いはキリストに よって取り除かれ、神の愛と祝福はキリストを通して信じる人の上に臨みます。従って、どのような罪人もイエス・キリストを信じて受けいれる決断をすることによって永遠の命に入るのです。 そこで、今、≪第48節≫に目を留めて下さい。ここに、「永遠の命に あずかるように定められていた者はみな信じた」 とありますが、この日本語訳は不適切な誤訳であると言わねばなりません。なぜならば、「定められていた」の原語(ギリシャ語)は「タッソー」で、これには三通りの意味があります。 1.秩序正しく並べる 2.定める 3.決断する、この三つで す。これを「神が定めた」と予定説のように訳すならば、≪第46節≫の 「自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった」という言葉と矛盾してしまいますから、第3の意味を採って、「永遠の命にあずかろうと決断した者は、みな信じた」と訳すのが正しいと思います。なぜなら、 永遠の命を与えようとの神の招きを受けるか受けないかは人の決断にかかっているからです。 * 一つの例をお話しましょう。 昔、わたしたちの教会に真砂文子さんという人が来ました。真砂さんは離婚とか、色々つらい経験を経て北海道から当地に来られた人です。ある夜、彼女は夢を見ました。大勢の人々にまじって広い道を流れるように歩いていました。みんな、すそながの白衣を着ていました。自分もそうでした。ところが一つの分岐点があって、広い道はそこから右手へのびていって山の下、谷間へ下って行きます。分岐点から左手へと狭い道がのびていって山の上の方へのぼっていきます。広い道は滅びへ、狭い道は永遠の命へ行くことが直感できました。彼女は洗礼を受けたクリスチャンでしたが自分の罪と汚れとを思うと、 どちらに行くべきか迷ってしまい、分岐点にあった紫色の岩の上に身を投げかけて泣いていました。すると向かいの山の上からイエス様が下りて来られて、「わたしがあなたをあがなったのだから、全ての罪はゆるされている。自分を責めることをやめて命の道へと進みなさい」と言われました。そこで真砂さんは涙をぬぐって、喜んで左手の狭い道をどんどんのぼって行ったという夢でした。これはスエーデンボルグの「天界と地獄」の中にも出てくる光景ですが、彼女はその本については未だ読んだことがなかったのです。 わたしが、この人の夢の話をしたのは、イエス様による救いへの招きを受けるのは人の決断によるのだという実例であるからです。人がイエス・キリストの福音を聞くときは、人生の分岐点に立っているときです。あなたが永遠の命にあずかろうと思うならば、多くの人の行く広い道をすて、ただ、イエス様だけについて行く、狭い道を選ぶことを決断することです。命の道への決断はキッパリ自分の心を切り換えることから始まります。 アーメン |
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