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                                          2002年5月5日の礼拝説教
  神からの挑戦

   使徒2:14〜36
   詩篇46:8〜11
   ヨハネ3:35〜36                 皆川尚一牧師
預言の成就
  そこで、ペテロが11人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に
  語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべての
  かたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに
  耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、
  あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
  そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならない
  のである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、
  わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は
  預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
  その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。
  そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、
  下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、
  見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、
  日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、
  主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』」(使徒2:14〜21)。

 「朝っぱらから酒によってロレツの回らない舌で変なことをしゃべって
いるんだ」という誤解を解くために、使徒ペテロと11人の使徒団は立ち
上がりました。そして、皆を代表して話し始めました。これはヘブライ語
でユダヤ人にわかるように説教したのです。
 つまり、この現象は酒のせいでもなければ、悪魔・悪霊の仕業でもなく、主なる神の預言された聖霊のみわざであることを明らかにしました。
預言者ヨエルの預言の成就だということは、今が世の終わりであり、
メシヤが来てこの世を裁く劇的な時代に入ったしるしとして、天から
聖霊が降ったことになります。
次にペテロはイエス様がメシヤであると証ししました。

メシヤ・イエス
  イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。
  あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、
  神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力ある
  わざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、
  あなたがたに示されたかたであった。
  このイエスが渡されたのは神の定めた計画と
  予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で
  十字架につけて殺した。
  神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、
  よみがえらせたのである。
  〜中略〜 
  それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、
  それをわたしたちに注がれたのである(22〜35節)。

 この聖霊は、あなたがたが偽メシヤ(=キリスト)と断罪して十字架に
つけたナザレのイエスを、神様が甦らせ、天の王座の右に引き上げて、御子イエス様を通して約束の聖霊を弟子たちに注がれたものであると
証しました。

神からの挑戦
 「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。
  あなたがたが十字架につけたこのイエスを、
  神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(36節)。

 このペテロの説教は、まさしく神から人への挑戦でした。それは、人を滅ぼすための挑戦ではなくて、人を救うための挑戦なのです。ナザレ人イエスを偽預言者、偽キリストと断じて、あなたがたは殺した。しかし、
神はこのイエスを甦らせた。人が殺した者を神は生かし、人が倒した者を神はお立てになった。これによって、ナザレ人イエスはただの人では
なく、主であり、真実のキリストであることが証明されたのです。
 イエス様は弟子たちに予告されました。世の終わりが近づくに従い、
偽キリストが出てくる。戦争、ききん、地震、クリスチャンに対する迫害、互いに裏切ること。人の愛が冷えることなど沢山の悪いことが起こるであろうと。しかし、神様の愛と救いのみわざを完全に滅ぼすことの出来る悪は存在しません。神の愛と義と救いの力を信ずる者は必ず勝つのです。ペテロも初代キリスト教会の弟子たちもその事の生き証人でした。
つまり、「わたしがキリストを十字架につけたのだ。どうか私の罪をゆるしてお救いください」と祈る人は、どんな人でも罪を赦され、神様に受け入れられ、永遠の愛の中に包まれ満たされて救われるのです。
 * 今から46年前、私が下関彦島教会の牧師であった時に、マタイ受難曲という映画が下関市の映画館で上映されました。それは不思議な映画でした。マタイ受難曲というシンフォニーの演奏にあわせて、キリストご受難の名画がスライドのように次々と映し出されていくのです。あとにも先にもそのような映画は見たことがありません。私たちは教会から一団と
なってその映画を鑑賞に行ったのですが、鑑賞なんて言う感じではなく、映画を見ている間に「私を罪と滅びの中から救い出すために罪のない
神の御子が十字架の苦しみを受けてくださったのだ」という想いから、
キリストのご愛に迫られて泣けて泣けて仕様がありませんでした。
とうとう終わりまで泣き通して、映画館から出てきたときは、私だけでは
なく、教会の人たちは涙でくしゃくしゃの顔をしていました。
話はまだあとがあるのです。
 この映画を観た次の日曜日に、暗い顔をした一人の若者が教会の
礼拝に初めて来られました。礼拝のあと12、3人で円陣を作ってすわり、初めての人に自己紹介をして、彼の名前を尋ねました。吉岡敬太郎君という人でした。どんな動機で教会に来られたのかを尋ねますと、「マタイ受難曲という映画を観たからです」と言いました。「では、あれを観てどう感じましたか」と聞くと、「ぼくがキリストを十字架につけたんだと感じました」と答えたのです。「それでは、あなたはこれまでに聖書を読むとか、
キリスト教の本を読むとか、教会に行ったことがあるのでしょう」と言いましたら、「いいえ全く何も読んだことがなく、教会に行ったこともなく、キリスト教に触れたのは、マタイ受難曲が初めてです」という答えでした。
…これには全く驚いてしまいました。この映画を通して聖霊が働いて下さったに違いないと悟りました。神の霊はこの映画を通して吉岡兄弟の
霊魂に愛の挑戦をもたらし、彼はキリストの愛に打ち勝たれて、そのとりことなりました。使徒パウロが「私はキリスト・イエスの囚人だ、奴隷だ」と誇らかに、喜ばしく告白したように吉岡兄弟もイエス様を信じてバプテスマを受け、持病のてんかんもイエス様によって癒されました。
彼はキリストによる救いの生き証人となったのです。
 皆さん、今もイエス・キリスト様は十字架の上から、天の王座から、
あなたに対して愛の挑戦を送り届けておいでになります。
これに応える人は幸せであります。                 アーメン

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