| 2002年5月19日の礼拝説教 |
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何をなすべきか
使徒2:37〜41 イザヤ57:15〜19 マルコ16:16〜18 皆川尚一牧師 |
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何をなすべきか 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、 「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。 そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、 イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。 そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、 すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、 与えられているものである」。 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、 人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、 バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが 三千人ほどあった(37〜41節)。 使徒ペテロの説教のしめくくりの一句は人々の心をもろ刃の剣のように突き刺しました。 「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、 主またキリストとしてお立てになったのである」(36節)。 罪のない神の御子キリストを偽者(にせもの)として殺してしまったのだという罪の自覚が人々の心に生じた時、「われ何をなすべきか?」という真剣な質問がペテロやほかの使徒たちに投げかけられました。これは 重大な質問です。良心の呵責を感じる人は新しい生き方を求めます。 *ある時、宣教師がアメリカ・インディアンの部落でイエス様のお話をしました。そのあと、家の白壁にキリストのご生涯をスライドで映しました。十字架の場面が映されたときに突然、ひとりの男が会衆の中から立ち 上がって、駆け寄って来てさけびました、「神の御子よ、十字架から下りてください。あなたではなく、私こそ十字架にかけられるべきです」と。 もちろん、そのように出来るわけではありませんが、この人は自分の 神様に背いていた罪を認め、悔い改めて、イエス様を信じ、新しい生き方を始めたに違いありません。 * この人とは別のインディアンの実例をお話致しましょう。エドさんの話です。エドさんはアメリカのインディアン隔離政策によって、まともな生活が出来ず、教育の受けられない境遇におかれました。それで、朝4時頃から起きてビールを飲み始め、自暴自棄になって暴れるので、警官が 逮捕しに来ても怪力を発揮して5人の警官でも全部投げ飛ばしてしまい ました。しまいにはパトカーも彼を見ると逃げて行くようになりました。 しかし、ある日のこと、テレビを通してイエス様の十字架の愛に心を打たれ、涙が出て、涙が出て止まらなくなり、イエス様を信じました。それから新しい生き方が始まりました。酒を飲むことをやめ、大きな十字架を担いでイエス様の愛と救いを宣べ伝えるために、世界中を巡り歩くことにしました。エドさんは日本にも来て、北海道から沖縄まで歩きましたが、 途中、相模大野の私の牧師館にも立ち寄ってくれたのです。 10数年前のことです。 悔い改めよ さて、「何をなすべきか」に対するペテロの答えは二つでした。 (1) 悔い改めよ これは心の方向転換をせよという事です。今まで 神様に背を向けていた心を、180度転換して神様の方に向けるのです。心は人の目には隠れていますが、神様の目には見えています。 心を主イエス様に向けて差し出せば、イエス様が受け取ってくれます。 神様はあなたの罪を赦して下さいます。新しい生き方は心の変化から 始まります。 (2) バプテスマを受けよ 心の変化の表現として、神と人との前で水のバプテスマを受けるのです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」 (マルコ16:16)とイエス様は約束して下さいました。バプテスマは単なる 形式ではありません。それは公けに自分の信仰を告白することによって神様と人とに受け入れられるのです。この世で有効であるばかりでなく、天国においても有効なのです(マタイ10:32)。その結果、すばらしいことが起こります。罪が赦され、神の子として受けいれられ、神様に愛される人に生まれ変わります。 * これは浄土真宗の話ですが、ある人が親鸞上人に「本当に救われているかどうか、どうしたらわかりますか」と尋ねました。すると親鸞は、 「先ず自分が赦されていることを悟り、次に自分が受けいれられている ことを悟り、最後に自分が愛されていることを悟ることだ」と答えたそうです。親鸞も景教の本を読んでキリスト教に触れていたそうですから、この三つの悟りはクリスチャンと共通しているのも偶然ではないでしょう。 しかし、これが単なる悟りではなく、霊魂の実体験として毎日経験されるように、神様は「聖霊の賜物」を与えて下さるのです。 聖霊の賜物 「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(38節)。 この「賜物」(ドーレア)とは、「カリスマ」ではなくて、聖霊そのものをただでプレゼントしてくださることを言います。宇宙よりも偉大なる神の御霊が神の御子イエス様を通して、信者に分与されるのです。それによって私たちは自分の内側に神様が宿っておられることを実感し、赦されていること、受け入れられていること、愛されていることを実感します。又、カリスマと呼ばれる聖霊の力が自分を通して働くことを体験して、神と共に 生きていることを証しする人になります。 この約束はユダヤ人とその子孫に与えられただけでなく、もっと遠くの人々、即ち全人類に与えられているのです。私たちは今日、二千年前のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事を記念する礼拝に参加していますが、それは今、この日本でも起こっています。今から36年前、1966年11月12日の早朝に、私は神様に起こされて書斎で祈るうちに 強烈な聖霊体験をしました。その日から36年間、聖霊は常に私の内側 に住んで色々な目覚しい救いの技を現わされました。そして、この相模大野教会も聖霊と共に今日まで歩んできました。この世は罪深く、罪の力は繰返し私たち個人や教会の中に侵入してきて、私たちを滅ぼそうとして働きます。だから私たちは絶えず悔い改めてキリストに立ち帰り、 曲った時代の中に取り込まれて滅びないようにしなければなりません。 曲った時代から救われよ ペテロは人々に、「この曲った時代から救われよ」と呼びかけました。 その言葉を受けいれた者たち三千人がバプテスマを受けたと記されています。この当時のユダヤ人たちがどんなに不信仰で心も体も傷ついた人々であったかという事がわかりますね。 現代もそうです。初めにお話したアメリカ・インディアンのエドさんのように、心も体も傷つき、ヤケになって暴力をふるったり、病気になったり、そして、その責任を他人のせいに したり、神様のせいにしたりすることがどんなに多いか知れません。 しかし、それは自分と他人しか見ていない結果です。もし、目を上げて十字架のイエス様を見れば、救いが差し出されているのがわかるでしょう。あなたはキリストによって、既に赦されており、受けいれられており、愛されていることを見出すでしょう。あなたがこの愛を受けいれるため に、更に一歩踏み出すならば、聖霊はあなたを満たし、あなたを作り変えてくださるのです。心を開いて「イエス様どうぞ」と言うだけでよいのです。 ア−メン |
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