| 2004/07/04の礼拝説教 |
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目を覚ませ
使徒20:22〜31 詩篇127:1〜2 マタイ24:44〜51 皆川尚一牧師 |
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今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、 どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、 わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、 わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、 わたしを待ちうけているということだ。 しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、 神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、 このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。 わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を 宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることは あるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。 わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。 神のみ旨を皆あますところなく、 あなたがたに伝えておいたからである。 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気を くばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない 取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの 監督者にお立てになったのである。 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中に はいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、 わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、 いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、 ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、 目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、 夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを 絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい(22〜31節)。 嵐に向かって進む 人はだれでも本能的に自分の身の安全を求めます。わざわざ危険を冒して嵐に向かって進むことはしません。もし、嵐に向かって進むならば、何か気高い目的があり、愛と勇気とがなければならないでしょう。 パウロは言います、 「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、 どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、 わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、 わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、 わたしを待ちうけているということだ」(22〜23節)。 彼は投獄と患難だけでなく、いのちを捨てることも覚悟しているのです。彼がエルサレムへ行く気高い目的とは何か。それは「主イエスから賜った恵みの福音を多くの人々に証しすることです」(24節)。これによって、キリストに在ってユダヤ人と異邦人が敵対心を捨てて一つになるように (エペソ3:6参照)。又、エルサレムで死なないで、必ずローマへ到達し、 ローマ皇帝の前で福音を証しするというビジョンを彼は見ていたのです。だから、嵐に向かって突き進むことが出来ました。 監督の務め さて、ここで使徒パウロは自分がかつてエペソ市に3年間滞在して エペソ教会の群れを監督したことを振り返っています。 監督(エピスコポス)とは、ギリシャ語で「注意して見守る者」 という意味です。 皆さん、ご存知の通り、野球の監督はチームに勝利をもたらすために選手たちひとりびとりに心を配ります。各人の力が充分に発揮できるように合図を送り、試合の流れを見て、必要に応じて選手を入れ替えたり、 じっと見守るわけです。 しかし、キリスト教会の監督はかなり違った面を持っています。 パウロは 「だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。 わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。 神のみ旨を皆あますところなく、 あなたがたに伝えておいたからである」(26〜27節) といっているのに注目して下さい。これはパウロが人の血を流したこと、つまり、傷害罪や殺人罪を犯したことがないという意味ではありません。これはエゼキエル書第3章のみことばによるのです。 主は預言者エゼキエルに命じて、こう言われました。 ≪エゼキエル3:17〜19≫ 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血を わたしはあなたの手から求める。しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う」と。 だから、「見守る者」すなわち「監督」の任務は、第一に、説教や預言という形で、会衆全体に神のみ旨を告げ知らせることです。又、第二に 個人的な戒め、慰め、励ましを通じて、悪の道、不信仰の道へと外れて行かないように気を配ることです。これは神様の代理として行うことですから、聴き従う者は救われますし、従わない者は自分の道を行って滅びることになります。パウロはこの責任を忠実に果たしたと言っているのです。 目を覚ましていなさい そこでパウロはエペソ教会の長老たちに対して監督としての自覚を 持って生きるように勧めています。 (1)自分自身に気をつけること これは先ず、自分が神の御子イエスの血で贖いとられた尊い神の子 であることを自覚し、常にこれを感謝し、主に告白し、主イエス様との 霊の交わりを養い育てるように努力することです。サタンは信者を 誘惑して罪を犯させ、それをトコトン攻撃するのが常です。 ここに「マルチン・ルターとサタンとの問答」があります。 * サタンはルターに過去の多くの罪を 思い出させて並べあげました。 ルター「それで全部かね」 サタン「いや、もっとある。○○○○、××××、△△△△」 ルター「それでおしまいか」 サタン「そうだ。だからどうだと言う のかね?」 ルター「さあ、その罪の下にこう書きなさい。 『御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである (ヨハネの第一の手紙1:7)』と」。 これでサタンは逃げ去りました。 又、昔、カンタベリーの大主教で イングという人がおり、「キリスト教神秘主義」という本を書きました。 これは古典的名著の評判が高く、わたしは神学生時代に手に入れ て愛読しました。その後、風の便りに聞くところによるとイング大主教 は信仰を失って姿を消したということです。皆さん、信仰歴何十年の 聖職者すら自分自身に気をつけないとこういう結果になるのです。 イエス様という大地にしっかり足を踏みしめて立っていればこそ、 溺れる人をも助けることが出来ます。 (2)全ての群れに気をくばること 教会全体に気をくばることです。つまり、ひとりびとりのクリスチャンが 自分と同じように主イエス様を信じ、愛し、成長して行けるようにと 見守り、又、世話をすることです。それは牧師や長老のする仕事で 一般信徒の責任ではないと考えるならば、 それは大きな思い違いです。 * 例えば、創世記第4章でカインが弟の アベルを殺して畑に穴を掘って隠したとき、 主はカインに言われました、 「弟アベルはどこにいますか」と。 カインは答えました、 「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。 この番人(ハ・ショメル)というのは羊飼いが羊の番人であるように、 人はその隣人の番人なのだという意味です。 しかし、カインは弟が死のうと生きようと全く関係ない とうそぶいたわけです。 わたしたちは同じ教会員として、お互いを見守る者です。その意味で わたしたちの教会では祈祷会やドゥーロス会でお互いの様子を確かめ 合って、とりなしの祈りをささげます。 エペソの教会に狂暴な狼が入って来て群れを荒らすことをパウロが 心配したように、現代のキリスト教会にもサタンが迫害や誘惑の手を のばして、信仰を失わせたり、混乱させたりします。世の終わりが近い ことをますます感じさせられるこの頃です。「目をさましていなさい!」 という主の戒めを深く心にとどめましょう。 アーメン |
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