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人の神性
                              ヨハネ・皆 川 尚 一
プロローグ
  「人の神性(しんせい)」という言い方は、たいていの日本人にはすんなり受け入れられるでしょう。なぜなら、日本神道、すなわち「かんながらの道」では、天地万物は唯一の太源霊(天御中主神)からすべてが生まれ出ていて、人はその子孫ですから、当然、神性を持っていると考えられています。ですから、明治天皇も、乃木大将も、東郷元帥も、国家のために戦死した将兵たちも神として明治神宮、乃木神社、東郷神社、靖国神社等に祀られているわけです。 また森羅万象ことごとく神性をもっていると考えられていますから、八百万の神々がおり、色々な神社に祀られています。しかし、数の上では多であっても、万神一元に帰一する総和の唯一神と信じています。そして、人間の霊は死後には神界に行って、生前の霊魂の実態に応じた世界で成長しつつ、高級霊となって行くと考えられています。

  そこへ仏教が渡来して日本に融けこんだのは、大乗仏教の中に、「すべての人間、すべての存在の中に仏性(ぶっしょう)が具わっている」という教があって、神道に融合し易かったからだと思われます。東南アジアの仏教国では、日常の挨拶は両手を合わせてお辞儀をしますが、それは相手の中にある仏性を尊敬するためだと言われます。また死者はすべての命の本源である無量なる命としての仏に帰すると考えられています。

  これに対してキリスト教では、「人の神性」とか「人の仏性」とかいう思想が認められず、「人の罪性(ざいせい)」の方が重視される傾向にあります。そして人は創造主である神に似せて造られた尊い存在であるが、人類の始祖アダムとエバが悪魔に騙されて神のようになりたいという野望を抱き、禁断の善悪を知る木の実を食べて悔い改めなかったので、罪性を持ったまま神界からこの世に追放された。人の霊魂は罪や穢れに染んでおり、体は土のちりから作られて無価値な物質。人が死ねば体は土に帰るが、霊はどうなるか? 伝道の書(12:7)には、「霊はこれを授けた神に帰る」とあるが、キリスト教では「イエス・キリストを信じて罪を悔い改めた人だけが神の許に帰り、悔い改めない人は地獄で滅びる」とする。

  従って、「神の子」と呼べるのは罪を悔い改めたクリスチャンだけであって、そうでない大多数の人は「罪の子」「悪魔の子」ですから、人を神として祀るのは偶像礼拝の罪を犯すことになります。また、天界の天使やクリスチャンの聖人であっても、神として崇めることは偶像礼拝の罪と見なされます。それゆえ、キリスト教はいつまで経っても日本には土着化できません。そこで、わたしは今一度聖書を読み直して教理化された考え方が正しいのかどうかを再検討して見たいと思うのであります。

1.神の創造のみわざ
――創造したのか、生み出したのか――
  《旧約聖書・創世記1:1》には、「初めに神は天と地とを創造された」と宣言されています。また《創世記1:27》には、
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」 とあります。

*原則として口語訳聖書を用います。

  この「創造する」と訳されているヘブライ語の(バーラー)には、「創造する、形成する、作る」と同時に「生み出す」という意味があるのです。この(バーラー)から「息子」(バル)という語が生まれました。「父が生んだ息子」という意味です。

  この解釈の根拠となる文献は下記です。

“ANALYTICAL HEBREW AND CHALDEE LEXICON p.113” (SAMUEL BAGSTER & SONS LTD 72 MARYLEBONE LANE, LONDON W1)

  それゆえ、《新約聖書・マタイ1:2》には、「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」(文語訳)と記されています。

  また、《新約聖書・ルカ3:23〜38》には、イエス様の父となったヨセフから神にさかのぼっていく系図が記されており、「ヨセフはヘリの子→マタテ→(中略)ノア→(中略)エノス→セツ(はアダムの子)→アダム(は神の子)→神」となっています。つまり、人は神の子孫であるということになります。

  従って、創世記第1章は「初めに神は天と地とを生み出された」、「神は自分のかたちに人を生み出された。すなわち、神のかたちに人を生み、男と女とに生み出された」と訳すことも出来ることになります。

2.人は神から生まれた
  「創造」に関しては、従来二つの大きな誤解が行われてきました。

 第一は、神は「無」から天地万物を創造したという誤解です。この誤解の原因は《新約聖書・ローマ4:17》「アブラハムは無から有を呼び出される神を信じたのである」との誤訳にあります。これが「無からの創造」という哲学思想を生み、創造主と被造物との非連続性という思想を生み出しました。このローマ書の正しい訳は、「無いものを有ると呼んだ神を信じた」です。

 例えば、創造の初めに、「光 有れ」と神様が呼んだら、光が出現しました。その光はどこから出たのでしょうか? 無からでしょうか? いいえ、神の中から発現したのです。無は無であって、有ではありません。すべて有るものは、有るものから出ます。そして神様こそすべての有るものの根源なのです。その証拠に、神様はモーセにご自身を啓示されました。

《出エジプト記3:14〜15》を見て下さい。

「神はモーセに言われた、『わたしは有って有る者(エイエー・アシェル・エイエー)』」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有る(エイエー)という方が、わたしをあなたがたのところへ遣わされました』と」。

 この啓示によれば、神様は「わたしは有る(エイエー)」というお方です。そして、イスラエルの民に神様を「彼は有る(ヤーウェ)」と呼べと命じられたのです。

  第二の誤解は、神と人との非連続性という思想です。これは、永遠者と有限者、全能者と無力者、といった対比によって、神の絶対的優越性を明らかにしようとするものです。

  勿論、神の絶対的優越性は間違いなく真実なことですが、その神様を「父」と呼ぶようにイエス様は人々に教えました。しかも、「アバ」というもっとも親密な呼び方で祈れと言われました。本来、神と人との関係は、契約による法律的な親子関係ではなく、出生による直接的な親子関係です。従って、天のお父様は初めからわたしたちを「実子」として愛して下さり、御子イエスに在って、ユダヤ人と異邦人との差別なく「実子」として受けいれて下さるのです。けっして、養子ではありません。

3.人の神性
  神のかたちに生んだということは、言い換えれば子は産みの親に似ていることです。つまり神の神性を受け継いでいるということになります。キリスト教神学では、創造主なる神は単なるエネルギーではなく、人格神であることが強調されますが、これは逆であって、人が神格を神様から分与されて人格を形成しているのです。神様は知恵・感情・意志を備えておられ、全知・全能であられますが、人にもその神格、神性が分与されているので、神様と交流できるのであります。人の霊魂は神性を備えた者として天界で生まれ、肉体の中に宿ります。 《創世記第2章7節》ではこう記します。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」

  土のちりで造られた肉体は全身60兆の細胞から成り、単なる物質ではなく神から生まれたものに相応しい神性を帯びています。そうであればこそ神性を帯びた人の霊魂と調和できるのです。肉体も神様から生まれた素晴らしい芸術作品です。人の霊魂の表現体としての肉体を構成する60兆の細胞のひとつひとつに意識があり・感情があり、意志があり、記憶があります。皮膚から内臓に至るまで全部そうです。

  また、人が住むこの世界は、土も岩も水も空気も光もあらゆる動物も植物も、森羅万象ことごとく神から生まれ、神性をおびており、天使たち、人間たちと合い呼応して神様を讃美礼拝しています。これは、詩篇や預言書や福音書に生き生きと表現されているではありませんか。

  しかし、人はこの世にいつまでも宿る者ではなく、天の故郷に帰って行く者です。

  《詩篇90:8〜10》のモーセの祈りには、
「あなたはわれらの不義をみ前に置き、われらの隠れた罪をみ顔の光の中に置かれました。われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去りわれらの年の尽きるのは、ひと息のようです」と記されています。

4.人の罪性
  前述のように、人類の始祖アダムとエバは悪魔に騙されて神のようになりたいという野望を抱き、禁断の善悪を知る木の実を食べて悔い改めなかったので、罪性を持ったまま神界(エデンの園)からこの世に追放されました。

《創世記3:17〜19》に神の宣告があります、

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰る」。

  キリスト教神学では、アダムとエバの背きの罪を「原罪(げんざい)」と呼び、神の「似姿」即ち「神性」はこの原罪によって損なわれたとしています。中でも極端なカルヴァン主義者は、《ローマ3:9〜18》に基づいて、「原罪による人間の全的堕落」を主張し、神の似姿は完全に失われて人は「罪の子」、「悪魔の子」となったと主張します。そして、すべての人はイエス・キリストの十字架の贖いによって救われて初めて神性を回復し、神の子と呼ばれる者となったとします。

  上記ローマ書の聖句は、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出で、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らの唇には、まむしの毒があり、彼らの口は、呪いと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と記されています。

  これは、人間の罪の深刻さを痛烈に指摘する言葉であるがゆえに、「人間の目から見て善とか愛とか見える行為にも、他人から善く思われたいという欲望が隠れているから純粋な善や愛はないのだ」という解釈を生んで来ました。善や愛は行為よりも、動機において判断されるという倫理観が出てきたのです。しかしながら、人間の心の動機は、神様だけがご存知であって、人間は他人の心の動機は元より、自分の心の動機すら正確に知りえない者です。それなのに、アダムとエバの子孫は原罪を受け継いでいるゆえに、神を求める心も、人を愛する心も、善を行う心も完全に失ったというのは、誤った見方であると言わねばなりません。

  例えば、アダムとエバの子のカインとアベルは、二人共、宗教心を持っていました。彼らは神を求める心を持っていたので、祭壇を築いて供え物を献げて礼拝をしました。しかし、カインは神の言葉を素直に受け入れて悔い改めなかったので、弟アベルを殺しました。カインの子孫の名前を見ると、エノクに始まり、メホヤエル(神に生かされる者)、メトサエル(神の人)等であって、神の恵みに寄り頼む信仰心がうかがえる名もありますから、宗教心が完全に失われたわけではないでしょう。一方、アベルの死後に生まれたセツとその子孫にはヤーウェ礼拝が盛んに行われ、アダムから10代目のノアまで信仰の家系が続きます。大洪水によって、悪いカインの子孫は滅ぼされましたが、生き残った善いノアの子孫には、セムやヤペテのような神を畏れる者たちもいれば、ハムやカナンのような神を畏れない者たちも出て来ます。神様は未来の人類の歴史を見通した上で、約束のメシア(キリスト)・イエス様をセム族の家系の中に生まれさせました。そこに、どんなに堕落した人間にも神様の愛と救いとを祈り求める宗教心があり、救われる見込みがあることを神様が期待しておいでになることが現れているではありませんか。

 新約聖書からの実例としては、イエス様の放蕩息子の譬話(ルカ15:11〜24)の中に、放蕩息子が放蕩に身を持ち崩して人生に行き詰まり、豚の餌のイナゴマメを食べたくなった時、父の愛を思い出し、本心に立ち帰ったとあります、その本心とは神性と言い換えても良いと思います。つまり、イエス様は「神の子の自覚」がどんな罪人の心の底にも潜んでおり、天の父は悔い改めて立ち帰る者を無条件で受けいれて下さると教えられたのです。

 また、使徒パウロのアテネでの説教(使徒17:22〜31)の中に、「あなたがたが知らずに拝んでいる神を、今知らせてあげよう。神は人々が熱心に求めさえすれば、神を見出せるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。このようにわれわれは神の子孫であるから、神たるものを、人間の技巧や空想で金や銀や石などにほりつけたものと同じと、見なすべきではない、悔い改めてキリストを信じるように」と勧めました。この説教の素晴らしさは、人の中に残存している「神性」に訴えて真の信仰の在り方を説いた所にあります。

エピローグ
  日本での伝道において大切なことは、人の神性を否定せず、神の子孫である事を認め、人々の心の底にある神への望郷心に働きかけることだと思います。救い主イエス様は失われた神の子をそのように探し求めておいでになりますから、わたしたちもそうしようではありませんか。

「讃美歌493−4」
  なさけ知らぬつみびとの  こころにも宿るなり
  母のおもわ、神の愛  ここにこそ救いあれ
  ひとりだにも滅ぶるは  みむねならじ助けよ

  その実例として、好地由太郎の救いについて述べたいと思います。好地由太郎は慶応元年(1865)千葉県君津郡金田に生まれ、災難続きで一家離散し、10歳のとき母親と死別、14歳のとき姉夫婦の養子となりました。その後東京神田の増田商店に奉公人として住み込み、4年間は忠実に勤めましたが、ある夜ふとした出来心から女主人を強姦・殺人・放火の罪を犯し、投獄されました。獄中でキリスト教の青年伝道者から「聖書を読みなされ」と勧められたことから、後にクリスチャンとなった姉に頼んで聖書を差し入れてもらいましたが、読めませんでした。ある夜の夢に、天使のように輝いた愛らしく美しい子が現れて言いました、「若者よ、この本を食せよ。これは永遠の生命を与える神の道である。この本を必ず読め。このことを決して忘れるな」と。字の読めない彼は看守長の原田正之助からカタカナと平仮名を習い、ルビだけで聖書を読んで、キリストを信じて救われました。彼は模範囚となり、天皇の恩赦を受け、伝道に献身し
ました。                                  以 上

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